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 その後、アンドラゴラス陛下の帰還をアルスラーンとヴァフリーズとは別で、一般市民の雑踏に紛れて見たイシュラーナは、食材を買い込んで帰途についていた。

「ダリューン兄さん帰ってきてるだろうし、今日はがっつり食べてもらいたいなー」
「ダリューン様ならきっと喜びますよ」

 今日は肉祭りだろうなぁと思いながら買い込んだ食材を迎に来てくれた料理担当の使用人と分担して持って歩く。

「買い忘れはない?」
「問題ありません。酒は準備万端ですし、食材も朝市で仕入れたものがあります。イシュラーナ様と足りないものを補充しましたから、これで完璧です」
「シェルフさんが言うなら平気だね!」

 にこやかに笑っていたイシュラーナはふと、自分達の進む方向が騒がしいことに気づく。

「何かあったのでしょうか」
「様子を見ます。シェルフさんは…」
「一応ついていきますね。役に立てるかは微妙ですが」
「ありがとうございます。万が一の時は私の分の食材も持って離れてください」
「わかりました」

 イシュラーナは現場へ向かう。民も兵士も慌てふためいていて、本当に大変な事が起きたらしい。

「何がありましたか」
「こ、これはイシュラーナ様!」

 近くにいた兵士に声をかければ、大人に捕まっている子供達三人を指差し、焦った顔で大声で言う。

「こいつらのせいで、ルシタニアの餓鬼が逃げました!その時に、王子が人質に…!」
「…!」

 深紅の目を見開いたイシュラーナがどさり、と両手に持った荷物を落とす。民衆が落とした荷物に気を取られている間に、イシュラーナは駆け出した。

「イシュラーナ様!」
「すみませんシェルフさん!屋敷までその荷物運んでください!」

 紺の髪をフードを被ることで隠して、裏道を駆ける。しばらくして表通りへ出ると、民衆のざわめきが大きい方へ向かう。

「っ…人が邪魔だ…」

 人が溢れ、避けるのが困難と判断したイシュラーナは手頃な場所を登り、屋根の上に立つ。結構な町外れ、城壁付近にたどり着いたとき、全力で疾走する金髪の奴隷とそれに引っ張られるように走る銀髪の上品な格好の子供を見つける。

「殿下!」
「イシュラーナ?!」

「ち、異教徒が増えた!」

 ルシタニアの捕虜がアルスラーンを抱える前に、イシュラーナの手がアルスラーンの肩を掴む。そしてアルスラーンを掴む手を払うと、自分の背にアルスラーンを隠す。

「この人は返してもらいます」
「嫌だね!大事な人質だ!異教徒だ!」
「だったら私を人質にしなさい!」
「そんなフードを被った得体の知れぬ奴を人質になんかせぬわ!」

 論点がズレている気がするが、とにかく論争が膠着したとき、アルスラーンは一言ルシタニアの捕虜に問いかける。

「なぜそこまで異教徒を憎む?」
「我らがイアルダボート神は人を平等に扱う!だが貴様らはどうだ!?」

 フードの中のイシュラーナはピクリと震えた。しかし、それに気づくことなく話は進んでいく。

「人の下に人を置くあの奴隷制度は何だ!?イアルダボート神はそのようなことは許さない!!人は皆平等だ!!」

 ルシタニアの捕虜はパルス人二人を指さして叫ぶように言った。

「よって我らが神の教えに従わぬ貴様ら異教徒は差別し殺してもいい!!」

 『言っていることが支離滅裂だ!/なんだけど…』

 アルスラーンとイシュラーナは内心で突っ込みを入れる。しかしルシタニアの捕虜がアルスラーンを再び引っ掴んで走り出したので、

「待ちなさい!」

イシュラーナも再び全力で駆け出す。その間に、王子と捕虜の会話は続く。イシュラーナはその会話には参加せず、黙々と彼らを追った。ルシタニアの内情と宗教の話は身をもって知っていたし、それを話すつもりもなかったからだ。

 最終的に、彼らは城壁までたどり着いた。槍や剣を構えた兵士らに囲まれ、捕虜は息も荒く、追い詰められたように見える。イシュラーナも、武器は構えていないものの取り囲む兵士の一人だった。

「寄るな!!…この者がどう……なってもいいのか!!」

 イシュラーナも息は荒いが、マントの下から冷静に彼ら二人を見ていた。いつどうやって殿下を取り戻すか。それを考え、静かにタイミングを計る。しかし、どんな時にでも想定外とはつきもので。

「もはやこれまでか…」
「投降せよ!無駄死にをするな!」

 アルスラーンの制止を無視した捕虜は、くるりと体の向きを変えると、アルスラーンを巻き込む形で城壁の外へ飛び出した!

「殿下!」

 イシュラーナはアルスラーンのマントを間一髪掴んだ。しかし、軽すぎる体では落下をしようとする捕虜とそれにつられる王子を持ち上げることができず、

「え、うわ、」

逆に彼女も一緒に落下した。

「殿下!イシュラーナ様!」

 見ていた兵士は大騒ぎだ。固唾をのんでその現場を眺めるしかないのだが。




 彼らの叫びを聞く余裕もないイシュラーナは、思いっきり叫んでいた。

「ひゃああああ!」

 手からアルスラーンのマントがすり抜ける。自分のフードが外れ、ゆるく縛っていた後ろ髪が解けてばさりと宙を舞う。恐怖に身をすくめつつ、状況を確認しようと目を開いた時、イシュラーナは驚愕した。

「…!」

 落下しながら逆さに見た城壁の外は夕焼けで真っ赤に燃えていたが、どこまでも広がる地平線は美しく、輝いて見えた。過去でも、また逃亡生活の中でもあまり見ることのなかった外の世界の広さ、輝きにイシュラーナは感動した。

――世界は、なんと美しい。

 しばらくその景色に惚けていたが、突然手を掴まれて引っ張られ、頭を包み込まれると、景色が薄紫の布に変わる。状態をつかめぬ間に城壁の下、溜められた水の中に頭から飛び込んだ。

 水が髪や衣服を濡らしていく。

――え、これはダメだって!

 実はカナヅチなイシュラーナ、泳ぐどころか浮かぶことすらできない。重くなっていく体を、薄紫の布の人間ーアルスラーンが抱き抱えて水面へ引き上げる。

「大丈夫か?イシュラーナ」
「で、殿下?!」

 アルスラーンは寄ってきた民衆にイシュラーナを渡し、自身も民衆に引き上げてもらう。その間にルシタニアの捕虜は馬を奪って逃げ、ダリューンが矢を射る直前にアルスラーンが止めたことによって彼は逃亡を果たした。
 原因を作ったがきんちょ三人衆を許し、捕虜が逃げ切ったことに安堵するアルスラーンの近くへイシュラーナは歩いていき、しゃがみこんだ。アルスラーンがこちらを向いたのを感じ、言葉を発する。

「殿下、申し訳ありません。本来ならば私が殿下をお守りしなければならなかったのに…」

 イシュラーナは珍しく臣下の礼を取って謝罪する。びしょ濡れの身体に、紺色の髪で隠れた顔から感じ取れる雰囲気は、後悔の念ばかりだった。

「気にするな。元は私が捕まってしまったのが悪いのだ。それに、イシュラーナは最後までこうして追いかけてきてくれたではないか」

 アルスラーンはそう言うと人から受け取ったタオルで紺の髪を拭き、誰かから受け取った毛布をイシュラーナの体にかけた。そして、にこやかに笑う。

「風邪をひかぬようにな、イシュラーナ」
「…!」

――なんか、王族なのに王族じゃないみたいだなぁ…

 イシュラーナは目の前の少年の器の大きさ、アルスラーンの普通の王族とは違う面を直感で感じ取る。自分と同い年なのにこの器量の差だ。もし、この王太子が正しきことを学び、考え、行動するようになったら、きっと後世に残る王となるのだろう。

――ぜひ、この人に仕えてみたい

「ありがとうございます、殿下。寛大な処置と、優しさに感謝いたします」
「堅苦しくする必要はない。だって、私とイシュラーナは友達ではないか」

 アルスラーンはしゃがんでイシュラーナの手を取った。イシュラーナは驚きで深紅の目を見張ったが、その表情はすぐに笑みへと変わる。

「ふふっ、そうですね――アルスラーン様」

 イシュラーナはアルスラーンの手を優しく握り返す。そして、彼女にとって最大の信頼を示す証拠を告げた。

「私のことはイサラで構いません」

 アルスラーンは驚いた顔をした後、嬉しそうに笑った。

「ならば戻ろう、イサラ」
「はい!」

 彼女は赤い瞳を細め、恥ずかしそうに、嬉しそうに笑った。


パルス歴三一七年。イシュラーナは王太子アルスラーンへ忠誠を誓う。
そしてパルス歴三二〇年、王太子アルスラーンとイシュラーナは14歳で初陣を迎える。その年、王都エクバターナは炎と血煙に包まれることとなるが、彼らは知る由もなかった。


信頼


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