香る熱帯夜

 豪雨の後、湿気の残る熱帯夜。
 入浴を終えて火照った身体に浴衣を渡され身に纏った。こんなに身体が熱いのは、夜になったにも関わらず暑い、ジメッとする空気のせいもあるのだが……。
 一番の理由は、この障子の向こうにいる人物のせい。
「おかえり。うん、ちゃんと着ること出来たみたいだね。感心感心」
 広い和室の真ん中、青い着物を着た五条家当主が大きめの布団を敷いていた。枕は当たり前のように二つ並んでいて、スマホは部屋の端で充電されている。
 なに突っ立ってんの? 早くおいでよ。大きな手で自分の顔を扇いでいる当主にそう言われ、敷居を跨いで畳の感触を足の裏で感じると同時に、障子の向こう側でお香の香りが漂っていることに気付く。部屋でお香を焚いているのだろうかと見渡すが、特に香炉が置かれているわけではない。
 良い匂い。田舎でよく香ってくる、仏壇に置かれるお線香とは違う匂い。死やあの世を連想させる香りとは違う、不思議で神秘的な匂い。でも、部屋にゆらりと揺蕩っているその香りに混じって、本当に一瞬だけど、優しくて落ち着く、でも、どことなくソワソワするような匂いの糸が揺れて流れてきていたような……。
「詩織?」
 悟に呼ばれて、部屋に入ってすぐの所で立ったままになっていたことに気付いた。ハッとして見上げると、腕組みをした悟が私を見下ろしてキョトンとしている。
「どったの? 心配しなくても呪霊なんかいないよ?」
「あ、ごめん……。何か、今までに嗅いだことのない、良い匂いがするなって思って……」
「? ……ああ。なるほどね」
 こっち、来てごらん?
 悟に手を引かれて布団の横に立つと、少し香りが濃くなった気がする。得も言われぬ香りに、すぅ、と息を吸ってほぅ……とゆっくり息を吐くと、先に畳に座った悟に、座りなよと促された。
「僕んちね、伽羅を使ってるんだよ」
「きゃら……?」
「お香。着物にも焚き染めてるし、ああ、枕からも伽羅の香りがするはずだよ。着物、嗅いでごらんよ」
 胡座をかいて衿を少し開(はだ)けさせると、悟は私を手招きしている。
 ……素直に脚の間に収まっていいものだろうか。悟のこの笑顔は油断ならない。そもそも、私が湯船で逆上(のぼ)せそうになったのは、悟のせいなのだから。
 でも、伽羅の香りをもっとよく嗅いでみたいのも事実。どうするべきか。飛んで火に入る夏の虫、にはなりたくない。けれど、部屋に漂う伽羅の香りは幻想的で上品で、甘いけれどどこかスパイシーで……。
「……いいの?」
「勿論。僕はいつでもウェルカムだよ」
 にっこりと笑っている悟の背後にハートが見える気がするけど、やっぱり嗅いでみたい。誘惑に負けると、少しずつ移動して悟の脚に膝をほんの少しくっつける。見上げながら、失礼します……と断りを入れると、少し開けた衿の合わせに鼻先を持っていった。
 凄く良い匂いがする。何だろう、言葉では言い表せない香り。こんな香りがこの世にあるなんて信じられない。
 悟から離れて枕も確認してみると、やっぱり何とも言えない良い匂いがする。……あれ? でも、悟の着物の匂いとは何か違うような……?
「伽羅は、神が創った香りって呼ばれることもある」
「へぇ……。確かに、こんな良い香り、嗅いだことないもんね……。高専でも使ってないよね?」
「んー、線香の形として使ってはいると思うよ。ただ、ここまでの香りはしないね。伽羅は希少で高価だし」
「……あの、もう一回、悟の着物の匂い嗅いでいい?」
「んふっ。やだ、詩織が積極的で僕嬉しい」
「ぅ、わ、わ!」
 悟に腕を引かれると、ぎゅむっ、と厚い胸板に顔を押し付ける形で抱き締められた。少し汗ばんでいる肌はひんやり気持ちいい。着物から香る伽羅が鼻腔を満たすと、少し瞼が下がってきた。
「……なんか……枕と少し香りが違う気がする……」
「ま、伽羅の香りは幅と深さがあるからね。でも、おかしいな、僕は同じ匂いだと思うんだけど」
 着物の袖を鼻に当てると、悟は少し首を傾げた。空気が動いて、また、あの良い香りが鼻に届く。
 悟だ。多分、あの凄く良い香りには、伽羅もだけど悟も関係している。そう思い、衿を辿りながら首筋に鼻を埋めると、離れたくない程の香りに届き、思わず目を閉じて着物をきゅ、と掴んだ。
 息が荒くなって恥ずかしいとか考えられなくて、ただ、悟と伽羅が混ざった香りを肺いっぱいに吸い込む。
「詩織、説明を求めても?」
「……悟と伽羅が混ざった香り……凄く良い匂いがする……」
「へ?」
「悟の匂いに伽羅の匂いが足されると、ヤバい匂いがする……」
「あはは。ヤバいってその言い方。君、語彙力どうし……」
 悟から離されてしまったと思ったら、後頭部に手を添えられ、空色を確認する間もなく唇を奪われた。伽羅と悟の匂いに、今度は藺草(いぐさ)の香りが混ざる。
「……はっ」
「全く……そんなとろーんて腑抜けた表情(かお)されたら、押し倒すしかないでしょ」
「だって、本当に良い匂い、……ん……」
 エアコンは27度。開け放たれた窓も襖も無い広い和室。
 唇が離れて目に入ったのは、薄暗い部屋に浮かぶ綺麗な白と空色。
 この部屋に来る前にも風呂で肌を重ねたじゃないか、なんて野暮なことは誰も言わない。使用人は皆、悟が帰してしまった。この家には今夜、悟と私だけ。
 帯を解かれると、衿を開けさせられ、顔を埋められ、君からも甘い香りがする。と低く囁かれて熱い吐息が肌に触れる。


 ぺたりと張り付く肌。雪見障子の向こう側では螢が数匹光っている。
 悟の帯を解くと香る伽羅。悟の匂いまで、あと数センチ。


2022/08/17



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