「今日は母さんの帰りが遅いんだ」
その台詞がそういう意味であったと気付いたのは、後になって霧野に言われてからだった。
「……三国さんも、ベタなこと言うんだな」
「ベタ? どういうことだ?」
「そういうことだよ」
霧野が神童の耳に口を寄せ、小声で言った。その言葉に神童は驚き、慌てた。
「ま……ッ、そういう意味なのか!? だって三国さんだぞ!?」
「はあ? お前たち付き合ってるんだろ? それなら何もおかしいことはないんじゃないのか」
「け、けど……!」
霧野はそんな神童の様子に、ひとつ納得したように頷いた。
「なるほど。お前たちまだなのか、そういうこと」
「い、いいだろ別に。まだ早い」
「というより、興味はあるが勇気が出ないんだろ」
「うるさい!」
嫌なほど図星を突いてくる霧野に、神童は噛みついた。
しかし、実際。実際どうなのだろう。三国が言ったその台詞の意味は、霧野の言う通り、そういう――神童には口にするのも憚られる――意味なのだろうか。
頬を掻き、少し照れながら言った三国の様子を思い出す。ただの放課後家デート、と思うには少し照れすぎていた気もするし、だがそもそも今まで神童も三国もお互いの家に遊びに行ったことはなかったから、そのことに対する照れであると言われればそうなのかもしれない。
結局のところ、行ってみなければ分からないのだった。
こんなにも一日が過ぎるのは早いものだったか。いつの間にか部活は終わっていて、着替えている最中横にいた霧野に「お前、意識しすぎだ」と小声で怒られ、気付いたら校門で三国と二人きりで立っていた。
「じゃ、行くか。俺の家はこっちだ」
先を立って歩き出した三国の広い背中を追う。背中からは三国の心は分からなかったが、神童と同じように少し浮足立っているような気がするのは、神童がそう望んでいるからだろうか。
神童が少し自嘲気味に口元を緩めると、三国が振り向いて名前を呼んできた。こちらに向かって差しのべられている手をそっと握って、とにかく考えるのは後にしようと、道順も分からない三国の家路を急いだ。
「お邪魔します」
「誰もいないんだ、そんなに気をつかわなくていいぞ」
かしこまった挨拶に三国が苦笑する。出された来客用スリッパに足を入れて、自分の家とは広さも長さも全く違う廊下をきょろきょろと見回した。
神童に言わせれば、一言で言うと、狭い。だが清潔感があり、よく手入れされた人間の手の暖かみがあった。
「とりあえずこっちだ」
廊下の脇にある一室の扉を開け、その中へと三国が手招いた。誘われるがままに足を踏み入れると、そこは紛れもなく誰かの一人部屋で。
「俺の部屋だ。汚くて悪いな」
そう言われて、思わず心臓がどくりと音を立てた。ここが、仮にも恋人である三国が、毎日過ごしている部屋なのだ。眠るのも着替えるのも勉強するのも全てここで、ここにある全てのものが三国の私物であるのだ。
そんなことを考え停止した神童に気付かず三国は適当なところに鞄を置いてくれ、と言った。部屋には物は多いが、とても綺麗に片づけられていた。
「腹が減ってるだろう。食材は昨日いっぱい買いこんでおいたんだ、何か食べたいものがあったらリクエスト受け付けるぞ?」
「あっ……いえ、あ、えっと。そう……だな、三国さんの一番得意な料理が食べたいです」
「うーん、ハードルを上げられた気分だが、頑張ってみるよ」
三国は笑って言った。じゃあちょっと作ってくるから部屋にあるもの適当に見たりしてていいぞ、と言われ、俺も手伝います!と返したのだが、神童は料理がからきしであった。
気持ちだけ受け取っておくよ、と苦笑されながら返されては言葉も出ない。結局、神童は三国の部屋というなんとも心臓に悪い空間に残され、少し離れた台所からとんとんと聞こえてくる包丁に耳を傾けるのだった。
流石にずっと立っているわけにもいかなくて、壁にきっちり寄せられたベッドに恐る恐る腰をかけてみる。ぎし、という音が、神童が普段使っているベッドとは違うのだなと感じさせられた。
少し肌寒くなってきた今、布団が2枚ほど整えられてベッドに被せられている。三国は毎朝この布団を捲って起き上がり、そして毎晩この布団を捲っては潜り込んで眠るのだ。無意識に鼻を鳴らして香りを嗅ぐと、三国の安心する香りが胸に広がった気がした。
とん、とん、と包丁がまな板を叩く音がする。お湯の沸く音も聞こえてくる。だが今、神童は己の心臓の音がうるさくて仕方がなかった。
この部屋から10歩ほどしか離れていない台所で三国が料理をしている音を確認して、神童はベッドに上半身を横たえた。我ながら変態的だと思う。横たえると自然と頭が枕に当たって、鼻先をそこに埋めた。
「……は、……」
肺一杯にその空気を吸い込む。すると先程よりもずっと強く三国の香りがした。自分がどんどん嫌な方向に興奮していくのが分かる。身体が熱く火照り、忌まわしい欲が全身を支配していく。それでも香りが心地良くて、ベッドから離れることができなかった。
「神童ー、辛いのは平気か?」
ガチャ、と扉が開き、神童は慌ててばっと身体を上げた。なんとか三国に気付かれることはなかったようだが、ふと、扉の前で止まった三国に嫌な汗が背中を伝う。
「どうしたんだ、髪の毛乱れてるぞ?」
「す、すみません! あ、辛すぎなければ平気です!!」
あたふたと髪の毛を手で梳かし答える。そうか、とにっこり笑った三国が背を向けて台所に戻ろうとしてほっとしたが、再び振り向いてきて心臓がまた跳ねた。
「あ、もうすぐできるから、できたら呼ぶな」
「はっ、はい!」
多分、メニューはカレーだ。先程まで三国の香りを嗅いでいた鼻孔をカレーの美味しそうな香りがくすぐる。胃が空腹を再び訴えたが神童の身体はそれよりも別の欲求に従いたがっていた。
油断すると下腹に伸びたがる右手をぎゅっと握る。このベッドは毒だ、まずはここから離れよう、そう思っても欲求に忠実な足は力を入れることを拒む。
二人きりの空間で、やはり神童はもっと三国に触れたいと、強く思うのだった。
「だいぶ待たせたな、神童。晩御飯ができたぞ」
再び扉がガチャリと開く。だが返事をせず、ただベッドに腰かけ俯いている神童に、三国は訝しみ近づいた。
「神童? どうした、具合でも悪いのか? ――うわっ!?」
顔を覗きこむようにした三国の腕をぐっと掴み、引っ張った。勿論そんなことをされるとは思ってもみなかった三国はよろけ、引かれるがままにベッドに倒れ込む。その身体を抑えつけるようにして、神童は馬乗りになった。
「なっ、に、何だ神童……っ!」
突然のことに暴れる三国の頬に手を添え、しかし優しく口づける。2、3度のキスを上から落とし、そのまま神童は三国の首筋に顔を埋め、はあっと大きく息をついた。
息の熱さに三国は首を竦めるが、神童の下から逃れることはできなかった。
「……三国、さん」
「し、神童……?」
「したい、……です」
何を、とは聞かなくとも、息の熱さで分かってしまった。三国は思い切り顔を赤らめて顔を逸らす。しかし神童の頬に添えたままの手が三国の顔を上に向かせ、目を合わさせた。
神童の目はまるで風邪を引いて熱にうなされているかのように潤んでいる。ぞくりと全身に鳥肌が立った。
「で、でも……っ」
「三国さんは、俺に晩御飯を振舞うためだけに家に呼んでくれたんですか?」
「それは……」
三国が顔を赤らめて口ごもった。そういう目的だったとは言わないが、学校ではできないくらいには触れあいたいと三国も思っていたことは明白だった。
神童は頬に手を添えたまま、三国の額、鼻先、頬、唇、顎、と何度もキスを落とした。
「答えてくれないなら、このまま三国さんをいただきます」
その目は潤んではいるけれども真っすぐだった。嫌ならば全身で断らなければならない。だが、嫌じゃない。母親がいない日だからこそ晩御飯を振舞おうと思った影で、もっと触れたいと思っていたことは事実だった。
いつかこうしたいとずっと望んでいたこと。三国は覆いかぶさる神童の頭に手を伸ばし、髪の毛に指を差し入れ、やんわりと笑った。
「好きにしろ」
「い……っ、いいんですか!?」
「何だ、お前が言ったことだろう。それでも男か」
神童に苦笑いをした三国に、ああやはりこの人には敵わないと、改めて思った。
2011.11.06
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