※(一応)アニメビヨンです。
イナズマジャパンに引き抜かれ、アジア大会のために日本の宿舎に来てからしばらくが経った。
基本全ての時間が練習に当てられるが、たまに半日の自由時間くらいはある。その時間をも練習に当てるのが常だが、今日は再びカタールから来ているエリザに会いに行く用事があり、ビヨンは雷門中から少し離れた空港に来ていた。
「――用件は以上よ。ごめんなさいね、こんなところまで来てもらって」
「いいえ。監督に会えたのは嬉しいです」
空港にあったカフェで、エリザとビヨンはテーブルに向かい合って座っていた。綺麗なカフェは世界大会期間中ということで少しの賑わいを見せていたが、煩くもなく、お茶をするのにいい場所だった。
エリザの話は母国の家族のことやチームメイトのこと、また他の敵国のことなど様々であった。重大な話はなかったが、母国のチームメイトからの手紙を届けてくれたことと、やはり馴染みの監督に会って話を聞いてもらうということは一人外国に来ている少年にとっては何よりもの気休めになった。ビヨンは汗をかいたグラスをコースターに置いて、エリザを見上げた。しばらく会わないとより美人に見えるようだった。
「……そういえば」
エリザが口を開いた。
「日本の監督は大丈夫? 男の人だけれど。……苦しかったりはしない?」
少し眉を顰めて言ったエリザの言葉を汲み取り、ビヨンは頷いた。大丈夫だと安心させるように、だが少し苦々しげに。
「ジャパンの監督はそんな人じゃありません。あのことならもう大丈夫です」
「そう。それなら良かったわ」
手元のコーヒーカップをぐっと飲み干し、店に飾られていた時計を見やる。
「あら、もうこんな時間。暗くなってきているし、私も協会に行ってくるわ。宿舎まで送っていけなくてごめんなさい」
「気にしないで下さい。監督も忙しいのに長い時間付き合って下さってありがとうございます」
「そんなことないわ。何かあったらいつでも連絡するのよ」
会計を払おうとしたらエリザに先を越されて二人分の会計を払われた。せめて自分の分は払いますと言ったが聞いてもらえない。大人しく引き下がりありがとうございますと言うと妖艶に微笑まれた。
エリザと分かれる頃には、もう陽は沈みかけていた。このままでは夕飯を食べ損ねてしまう。早く帰ろう。
空港から雷門中に向かう電車に乗り込んだ。ちょうど帰宅ラッシュが始まる頃で、電車は混んでいた。
ぎゅうぎゅうに詰め込まれた電車内からはビヨンの身長では外の景色も見えない。ここから雷門中まで一時間近くかかるが、まあしょうがないと諦めて前に立つ人の背中を見つめエリザとの会話を思い返していた。
別れ際に話題に上った過去の話は、ビヨンにとってはまだ過去と言いきれるほど昔の話ではなかった。それでも前よりはずっと過去のことだと割り切れるようになったが。
いつしかビヨンの意識は当時へと飛んでいた。
あれはビヨンがまだ幼く、ようやく就学できるような年齢になった頃。
その日は、初めて一人でバスを使って親戚の家へ行くことになっていた。それまで何度も親に連れられて行ったことはあったが、一人で交通機関を使い行くのは初めてのことだった。
両親もまだ幼いビヨンを一人で行かせることには不安を感じていたようだが、これもいつかは経験すること。心を鬼にしてビヨンを送り出し、ビヨンも心細く思いながらもぐっとこらえて玄関を飛び出した。
親戚の家は、まずビヨンの家を出てしばらく歩き、バスに乗る。そしてバスをいくつか乗り継ぎ、3時間ほどしてようやく着く場所にあった。
道は完璧に覚えている。一つ目のバスに乗る。降りる。そしてまたバスに乗る。
そこまでは良かった。
どうやら最後のバスに乗るための乗り継ぎがうまくいかなかったらしい。停留所につく直前に行ってしまったらしく、次のバスは一時間後。仕方が無いから手持無沙汰に停留所の椅子に座っていたとき、事件は起こった。
見ず知らずの大人の男性がビヨンに近づき、声をかけてきたのだ。
「君、お父さんやお母さんは?」
迷子だと思われているのだろうか。ビヨンは答えた。
「いない、一人で来てる」
「そうか。このバスは次は一時間後だよ」
「知ってる」
わざわざそれを教えるために話しかけてくれたのだろうか。だとしたらいい人だ。少し緊張がほぐれた。
男は続けた。
「ずっとここで待つ気かい?」
「うん。お金もないし」
「お金なら僕が持ってるよ。僕もこのバスに乗るつもりだけど、時間があるんだ。一緒においしいものを食べに行かないか、すぐそこにいい店があるから連れて行ってあげるよ」
知らない人についていってはいけないと、出かける直前に両親に強く注意された。しかしこの男はバスのことを教えてくれた。幼い頭脳はまだ少し疑わしく思いながらも、ずっとバスに乗って緊張していたせいで空腹を訴え始めた腹の意志に従った。
ビヨンは戸惑いがちに、男に頷いた。
「じゃあ行こう。あの公園の向こうにあるよ」
しかし、男の言ったいい店というのには辿りつけなかった。
男に引かれてビヨンがつれこまれたのは、公園の近くにあったトイレだった。行き先が違う、とビヨンが足を止めると男は無理矢理腕を掴み、押し込むようにしてトイレの個室に押し込まれた。
そして、ビヨンは幼心に抉られるような性的な暴行を、男によって施されたのだった。
泣き叫ぶ声を聞いた通行人に助けられ大事には至らなかったが、それでも年端もいかない少年が心に大きな傷を受けるに十分な扱いを受けた。
それ以来ビヨンは長い間大人の男というものに恐怖を抱くようになり、極力接触も避けてきた。エリザが心配したのは日本の監督が男だったため、ビヨンが過去のことを思い出したりしていないだろうかと思ってのことだった。
確かに久遠は大人の男だ。しかしあの時の男とは全く違う。
今でも滅多にないとはいえまれに事件のことを夢に見ては飛び起きることもあるが、もうほとんど恐怖も克服しつつあると思っていた。むしろ、思いたかった。
がたんがたん、と揺れる電車にはっと意識が戻された。
いつのまにか立ったままうとうとしていたらしい。首を軽く振ってまわりを見回したが、まだまだ電車の中は混んでいた。雷門中に着くまではこのままだろう。
少し前まではこうやってサラリーマン達が、大人の男が大勢ひしめき合う日本の電車になんて怖くて乗れなかった。今でも気分は悪いが、交通手段が限られているのだからしょうがない。今はとにかく早く帰ってマネージャー達の作る夕飯が食べたかった。
しかし、ビヨンの意識が戻ったのは電車の揺れのせいではなく、意図的なものだったと気付いた。
ふと背中のあたりに違和感を感じた。いくら混んでいるとはいえ、やけにくっついてビヨンの頭のあたりに熱い息をかけてくる人物がいる。具合のでも悪いのだろうか。だが思うよりも本能が危険を察知していた。
何か、まずい気がする。
混雑に体を動かすこともできない。逃げる場所がない。それでも逃げようとしたビヨンに気付いたのか、恐らく熱い息をかけてくる真後ろにいる人物が、ビヨンの尻から背中を意志を持って撫で上げた。
「…………!」
ビヨンはせり上がる恐怖に体をこわばらせた。明らかに愛撫するような、いやらしい手つき。たった一撫でだけでビヨンの頭に何年も前のことを蘇らせた。
こうやって何でもないような場所を優しく撫でて、安心させるようなことをしておきながらその後にすることを、ビヨンは知っている。
「さ、わるな……っ」
後ろにいる相手にようやく聞こえるかというくらいの声で、抗議した。もっと大きな声が出せればよかったが、恐怖がビヨンの喉を締め付けていた。まともな声が出せない。
すると後ろにいた人、――大人の男が、押し殺すように笑ってビヨンの尻を大きく撫でた。
「君、かわいいね。知ってるよ、カタールから引き抜かれた子だろ。日本対カタール戦、スタジアムまで見に行ったよ」
その声は気味が悪いほど優しかった。そんなところもビヨンの記憶する男に似ている。いよいよ震えだした手をぐっと握り胸元に引き寄せた。
怖い。優しく低い声の裏に何を思っているのか、全て知っている。
怖い。
「ずっとかわいいと思ってたんだ。まさかこんなところで一人でいるなんて思わなかったなあ。ラッキーだ」
「っ、……っ」
男の手は妙に温かくて、布越しに体温が伝わってくる。頭皮にかかる息もひどく熱い。背中にぴったりついた男の股が心なしか硬い。
気持ちが悪い。気持ちが悪い。気持ちが悪い。
ビヨンが震えているのに気付いた男は、初心だね、と囁いた。
「そんな反応するなんて、大人顔負けのプレイをするとはいえやっぱり年相応だね。こっちも年相応なのかな?」
そう言って男は股の間に手を差し入れた。その手を優しく諭すように、場所と相手が違ければ親が子に施すような手つきで。しかしそれはビヨンの恐怖を煽るだけだった。
「ひっ……う……っ」
「ここで気持ちいいことはしたことがあるのかい? 怖がってるだけじゃわからないよ」
今や抱きしめても抑え切れないほど、ビヨンの体は恐怖に震えていた。きっと満員電車でなければ崩れ落ちていただろうというくらい、足も震えていた。
男は今までのような小さな声ではなく少し大きな声で言った。
「具合が悪いみたいだね。次の駅で降りよう。僕が救護室へつれて行ってあげるよ」
――『すぐそこにいい店があるから連れて行ってあげるよ』
嫌だ。つれて行くなんて言葉は信用できない。絶対につれて行ってくれないばかりか、ビヨンの嫌なことをしてくる。知っている。
だが声が出ない。抵抗する力も手足に入らない。体ばかりが情けなく震える。
速度を落とし駅についた電車はビヨンと男を降ろし、雷門中へまっすぐ帰らせてはくれなかった。
続→
***
2010.11.28
beyon top