全くこれは事故だったと言わざるを得ない。
「……開かないな」
何度も扉を引いては押したのち、ニースが放った言葉が静かな空間に響いた。
事は少し前まで遡る。
ニースとビヨンはアジア予選の最中早くもイナズマジャパンに引き抜かれていた。
合宿所である雷門中に寝泊まりすることにも慣れてきた頃だった。
消灯時間も近づく頃、その時ビヨンは雷門中の屋上にいた。
特に目的もなく、夜空を見上げてぼーっとするのが好きだった。
「ビヨン」
ふと後ろから声がかかり、振り向くとニースがそこにいた。
行ってもいいか?と目で聞かれたのを微笑んで返すと、ニースがとなりに立ってビヨンと同じように空を見上げた。
「部屋に行ったらいなかったから来ちゃった。何か考えごとか?」
「いいえ。何もないんですけど」
言って、ニースの方を向いていた目線を再び空にうつした。
暗い夜空だ。
「砂漠では星空がほぼ360度見渡せるのに、部屋からだとほとんど見えないのが寂しくて」
「ああ、確かに」
この稲妻町は恐らく都会にしては夜空が見えるほうだろう。しかしやはり、砂漠などとは比べ物にならない。
じっと目を凝らせばひとつふたつと見えてくる星を眺め、ニースは相槌をうった。
「俺の国も、星は降ってくるものってイマージだな。日本に来て星空が見れないっていうのは寂しいな」
「本当に。夜は危険も伴う時間だけど、やっぱりこうして星空を見るのが落ち着きます」
ビヨンの、今は翳って黒ずんで見える翠の瞳が星空を映している様子はとても幻想的に見えた。
ニースが隣のビヨンの肩を引き寄せるとぽすんと倒れ込んだ。
胸の中に来たビヨンをぎゅうっと抱きしめる。外はまだ少し寒かった。
「何ですか?」
「寒かったから抱きしめた。この理由じゃ駄目?」
「い、いえ」
ほんのり頬を染めたビヨンが愛しく、抱きしめていた手で顔を上げさせてキスを落とした。
ニースが屈む形になってしまうのはどうしても仕方が無い。
それでもビヨンが少し背伸びをしてくれているのを感じると、もう止められなかった。
何度も上から唇を重ね、深くしていった。
「んっ……、ここ、一応外……」
「大丈夫だって、誰もこんなとこ見ない」
「はっ……んぅ……」
キスの合間に一応の抵抗を見せたが、再び口をふさげば聞こえてくる息使いは満更でもなさそうだ。
屋上の柵にビヨンの体を押しつけ、夢中でビヨンの咥内を味わった。
が、水音と息使いしか聞こえなかったそこに、突然ガチャンと無機質な音が響いた。
誰かが来たのだろうかとばっと体を離して、唯一の出入口である扉の方を見たが誰もいない。
二人はほっと胸を撫で下ろしたが、ふと、ニースが声をあげた。
「あっ、……も、もしかして」
「?」
ニースはすたすたと扉に近づき、金属のドアノブをまわした。
ガチャガチャ。
ガチャガチャガチャ。
「……開かない……」
「えっ!?」
慌ててビヨンも駆け寄りドアノブを回してみたが、本当だ。
さっきまで出入りしていた唯一の扉が、おそらく見回りの警備員によって施錠されてしまったのだろう。
ニースがドンドンと扉を叩き、扉の向こうにいるかもしれない警備員を呼んだ。もしかしたら届くかもしれない。
「すみませーん! 開けてもらえませんか! 警備員さーん!!」
しばらくそうして呼んでいたが、どうやら警備員は気付かないまま遠くへ行ってしまったようだ。
学校の一番端の上にある屋上なんて、少し離れれば声は届かない。
それでも根気強くニースが声を上げてくれていたが、やはりもう完全にいなくなってしまったようだった。
ニースもビヨンも外国から来た者。携帯は持っていない。
悩んでも、もうどうしようもなかった。
「……ごめん、ビヨン。もしかしたら今晩はここで過ごすことになるかもしれない……」
「そんな、ニースが謝らないで下さい!」
そもそもここに来たのはビヨンだし、ニースは声を張り上げて助けを求めてくれた。そんなニースを責めることなどできない。
ビヨンは頭を下げた。
「むしろ、私のほうこそごめんなさい。ニースを巻きこんでしまって」
チームの中継ぎとして一番動くポジションのニースの体を思うと余計に申し訳なくなった。連日の練習で疲れているだろうし、今すぐベッドに入りたいだろう。
うつむいたビヨンの肩をぽんと叩き、ニースは落ち着かせるように笑った。
「謝るのはこれで終わりにしよう。ここは寒い、少し風が当たらないところへ移動しよう」
風をもろに受け、二人の体は冷えていた。
ジャージを着ていても寒いそこから建物の陰になるところへ行き二人で腰を下ろした。
体をぎゅっとくっつけると少しは寒さを凌げた。しかしやはりまだ寒い。腕を擦っているとニースに抱えられるように抱きしめられた。
「ん、ニース……これじゃニースが寒いんじゃ」
「大丈夫。ビヨンがあったかい」
いわば人間ホッカイロか。
背の高いニースにすっぽりと包まれ、体の筋肉が安心したように弛緩した。
後ろのニースに凭れて膝を抱えると、外とは思えないくらいに温かかった。
「ビヨンは寒くない?」
「私は平気です」
そうしてしばらく他愛もない話をしながら暖をとった。
眠ったほうがいいのだろうかと少し話しあったが、眠ってしまっては風邪をひいてしまうんじゃないかという結論が出た。
「でも、ビヨンが眠たかったら寝てもいいよ。俺は起きてる」
「ニース一人にそんなことさせられません、私も平気ですし起きてます」
そうは言ったものの、夜は長い。
屋上から見える体育館の時計がようやく日付を跨いだことを二人に教えてくれた。
二人きりで長くいられるというのは嬉しい。が、もっと別のときであったらよかったのにと思わずにはいられなかった。
話題も、こうも何の変化もない場所にずっといては尽きてくる。
お互いに体を温め合うように体をくっつけて、数時間が経過した。
どうやらニースがまどろんでいるらしい気配がする。
起こすのも忍びなくて振り向くことはできないが、腕の力が弱まり頭がかくんとなっている。
少しくらいは睡眠で休ませてあげようと放っておくことにしたが、やがてそれどころではなくなってきた。
ビヨンはニースを起こさない程度に足をもじもじさせた。先程からずっとこうしている。
風に当たっていたときに感じた寒さが尿意となってビヨンを蝕み始めていた。
トイレに行きたいと思っても、この屋上にはトイレなんてない。
それ以前に今寝ているニースを起こさないとトイレに立てないが、そんなことで疲れてようやく眠りそうなニースを起こしたくもない。
でも、トイレに行きたい。
そんな葛藤がビヨンの中で始められてから、一時間近く経った。
「っ…………」
何度目か分からない波をやりすごして、ビヨンは小さく息を震わせた。
ニースは完全に寝入ってしまったらしい。ビヨンの肩に頭を預けて寝息をたてていた。
その息がなんだか恨めしくなってしまうほどビヨンに余裕はなくなっていた。
トイレに行きたい。
その気持ちでいっぱいだった。
「――ッ……ふっ……」
再びきた尿意の波を、腹に力を込めて耐える。
指先はずっと拳を作っていたせいで真っ白になっていた。
肩と背中にかかる体重はもう気にしていられなかった。
とにかくトイレに行きたい、と体を少し動かした。
「ん……?」
その拍子にニースが起きてしまったらしい。耳元で気だるそうな低い声が聞こえ息が耳にあたり、ビヨンはびくりと肩を震わせた。
――やばい、
「あ……ァ、ニー、ス……っ」
「……ん……?」
「だめ、です、ァッ、あ……ッ」
ビヨンは震える体をふるわせ、目を見開いて首をがくがくと振った。
だめだ、このままでは出てしまう。
ニースは目が覚めたばかりで状況が分かっていない様子だった。無理もない。だが、ビヨンの様子がおかしいということだけは分かった。
「ビヨン、どうし……」
「や、だめ、しゃべらないで、はなして……ッ!」
ニースの声が耳をくすぐると、堪えているものが抑え切れなくなってしまう。
起きたニースの腕から抜け出そうと立ち上がろうとした瞬間、心配をしたニースの手が肩を掴み、そして。
「ッあ、ァアアアァア……――ッ…!!」
――限界が訪れた。
ビヨンの体にぐっと力が入り、わけが分からないニースの腕の中で、勝手に溢れてくる尿が勢い良くジャージのズボンを濡らしていった。
限界の限界まで我慢していた尿は止めようと思っても止められない。
真っ白になっていた頭が少しずつ覚醒して、今放尿をしているこれは現実なのだと受け止めて、ビヨンは両手で強く頭を抱えた。
パニックになり髪の毛をがしがしと掻きまわしても尿は止まらない。
やがてそれが冷たいコンクリートにまで達し、寒い外気に晒され湯気をたて。ビヨンの瞳からぼろぼろと涙が目から零れ落ちて、ようやくニースは理解した。
「ビっ、ビヨン……!?」
「ぐっ……ひっ……、見ないでっ、見ないでください、うぅっ…ああぁあ…!!」
「とりあえず、立とう。大丈夫だから、な」
こんな年齢になってもまだおもらしなんて子どもじみたことをしてしまったのが情けなくて、そして好きな人の前でなんて恥ずかしくて、しゃっくりを上げて涙を流すビヨンを必死に宥めてニースはビヨンを立たせた。
ズボンは色が変わるほどぐっしょりと濡れていて、座っていたコンクリートも黒く色が変わっている。
ニースは自分のせいで我慢させてしまっていたことに気付き、しゃっくりと涙の止まらないビヨンを撫でて落ち着かせながら謝った。
「ごめんなビヨン、トイレ行きたかったんだな、俺のせいで我慢させてごめんな」
「ひっ……ううっ……!」
ビヨンはふるふると首を振ったが、しゃっくりのせいで言葉は出なかった。
しかしもう出してしまったものは仕方が無い。とにかく濡れた服をどうにかしなければと、ニースは思案した。
幸いにも被害はビヨンのズボンだけで、上着などは濡れていなかった。
「ビヨン、このままじゃ風邪ひく。俺の上着貸すから、一回下脱いで腰にでも巻いて……」
だがビヨンは再び首を振った。外で脱ぐことの羞恥からか、それともパニックがおさまらず首を振っているのか。
それでもこのままでは余計に風邪をひくだけだ。少し空が明るくなってきたとはいえ、まだ時間はある。
動こうとしないビヨンに実力行使に出ようとしたとき、ぽつり、とニースの頭の上に何かが落ちてきた。
「…………?」
上を向く間もなく、ザァァァ……と勢い良く雨が降り出した。ひどい土砂降りだ。
ビヨンのしゃっくりも驚きに止まり、ものの数秒で全身がずぶぬれになる雨に慌てふためいた。
視界が悪い中、屋根はないかと目で探すと少し離れたところに身を隠せるような場所があった。ニースはビヨンの腕を引いて走り、屋根の下に身を置いた。
もうすっかりびしょ濡れだ。
「言うのも悪いけど、これで漏らしたのも気にならなくなったな。お互いびしょびしょだ」
「……そう、ですね……」
ジャージの裾を手で絞りながら笑って言ったニースに、相槌を打ったビヨンはやはりまだ晴れないようだった。
ニースは唇を尖らせて、濡れた体で再びぎゅっと抱きしめた。咄嗟にビヨンは離れようとした、が、逃がさない。
「は、離して下さい! 汚いですからっ! 軽蔑するならしてください!! 気を遣わなくて結構です……!!」
「軽蔑なんてしないよ」
腕に力を込めてそう言うと、ビヨンの動きが止まった。真偽を探るように見上げる翠の目に、真剣さを伝えるようにじっと見つめた。
「ビヨンが何しても好きだから、大丈夫。愛してる」
「……っ……ありがとう、ございます……」
外は明るさを取り戻し、豪雨も通り雨だったようで太陽が顔を出し始めていた。
「まったく! 練習も試合もあるんですよ!? 一晩外にいたなんて、風邪引かせてくださいって言ってるようなもんですよ!」
「まあまあ、本人達も反省してるんだし、わざとじゃないんだから……」
「す……すみません……」
その晩。
心配しているようには見えないが心配してくれる春奈と、それをなだめる秋、せっせと氷嚢を持ってくる冬花の看病を受け、ニースとビヨンは風邪の症状でベッドにふしていた。
***
2010.09.23
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