ずっと言ってみたかった、憧れの言葉があった。
「先輩! 俺、今日家に一人なんでッ」
『そりゃそうだろう。今日からお前は一人暮らしなんだから』
――憧れの時間、終了。
狩屋は電話の向こうの人物の反応に大きく肩を落として、しかしここでめげてはならないと己を叱咤する。
なんたって、今日は記念すべき新生活のスタート。長い戦いだった受験戦争を勝ち抜いて、ようやく得られた自由。
そして何よりも、恋人に提示された約束の期限。
忘れたとは言わせない。何度も何度も彼自身から発せられていたのだから、違えさせることも許さない。
男、狩屋マサキ十八歳。今日こそ、五年間付き合い続けた先輩、三国太一さんと一線を越えます。
「そーじゃなくてですねえ! 先輩、ホラ、俺の家に遊びに来てくれたって良いんですよ!」
『しかし、荷ほどきとか色々あるだろ? もう少し落ち着いたら手土産持って行ってやるよ』
「俺荷物少ないからそういうのほとんど無いんですって! ね、先輩」
『うーん……』
電話口で三国が唸る。引っ越しで疲れているだろうし、とか、引っ越したばかりなのにお邪魔するのは悪い、とか。モゴモゴと発せられるのはそんな言葉だ。
だが、そのどれもが決定打に欠ける。というよりも、決定打になりうる拒否の言葉が発せられないのだろう。良くも悪くも正直な人だ。
「でも先輩、今日は用事とか無いんでしょ? 俺のために今日一日空けてくれてるんでしょ」
『……、あのなあ』
少しのため息と苦笑の混じった声が返ってきた。
何度も何度も伝えていた狩屋の引っ越しの日にち。それに三国が予定を入れているわけがないと狩屋は踏んでいた。というよりも、予定を入れさせないために何度も伝えていた。
引っ越しを手伝ってほしかったわけではない。お日さま園から出た狩屋はほとんど私物なんて無かったし、家電やらは業者が運んでくれる。
ただ、一人になった家に来て欲しかった。そして、そして。
暫しの沈黙のあと、三国は頷いた。
『……分かったよ。行ってやる。三十分くらいで着けると思うが、何か必要なものはあるか?』
「何にもいりません! 先輩が来てくれれば、それで!」
『分かった。じゃあ、後でな』
ぷつん、と通話が切れた。
――ついに、このときが来た。
狩屋は誰もいない部屋の中央で天に向かい大きくガッツポーズをしたあと、与えられた三十分という猶予に何をすべきか思案し始めた。
狩屋と三国は、狩屋が中学一年生、三国が中学三年生の頃から恋人として付き合っていた。
はじめのうちは子犬の戯れのようにしか思ってもらえていなかった狩屋のアタックに三国がようやく気づいて、そして三国が折れるような形で恋人という形におさまったものだった。
だがそんな馴れ初めであっても、案外二人の相性は良く。母親気質の三国と末っ子気質の狩屋は、傍から見ればただの兄弟。だがそう見られるのが悔しかった狩屋が奮闘し、なんとか同性の恋人としての地位を勝ち取った。
しかし、そうして結ばれて五年経った今でも、まだ乗り越えられていない壁があったのだ。
「狩屋。久しぶり、だな」
「ハイ! 先輩が全然会ってくれないから……! あ、上がってください」
「ああ。お邪魔します」
チャイムが鳴って、扉を開けるとそこには久しぶりに対面した想い人がいた。
三国はあまり変わっていないように感じる。しかし今年成人した彼はますます格好良くなって、狩屋には眩しかった。
思わず熱くなった頬を隠すようにして部屋へと招き入れると三国もそれに従い靴を脱ぐ。
決して広くないワンルーム。所詮これから大学生になる男が一人で住む家だ。廊下という廊下もあってないようなもので、三国を招き入れると、ほとんど物のない部屋も狭く感じた。
部屋の中央に置いたテーブルと、その脇に置いたベッドの前に三国を座らせて、適当にペットボトルの水を出す。
「すんません、ほんと引っ越したばかりで茶も淹れられないんスけど。冷蔵庫も空っぽだし」
「そんなことだろうと思って、少し食材を買って来た。後でなんか作ってやるよ」
「わ、マジっすか? ありがとうございます!」
三国に差し出されたビニール袋を受け取ると、ずっしりと重たかった。それをひとまず冷蔵庫に入れて、ようやく狩屋も三国の隣、気持ち離れて座る。
こうして二人きりになるのは本当に久しぶりのことだった。電話やメールは頻繁にしていたが、狩屋が受験生ということもあったし、三国も授業にサークルにバイトに忙しい日々だ。
まだテレビもない部屋、遠くで走る車の音が微かに聞こえるだけの空間に心臓が高鳴る。
「げ……、元気でしたか」
「何だその質問は」
沈黙が耐えられずに狩屋がそう聞くと、ぷっ、と噴出された。しかしそれで狩屋から伝わっていた緊張が解けたのか、三国は小刻みに肩を揺らしながら頷く。
「おかげさまで元気だよ。狩屋も、元気か?」
「あーもう、ハイ、元気です。ご存知の通りで元気です」
狩屋も肩を竦めてそう返事をした。久しぶりの対面が何だか彼らを照れ臭くさせたが、これでもういつも通りだ。
「天馬くんと西園くんは先週ようやく全部の試験が終わって、今が結果待ち。剣城くんはサッカー留学の準備中で、影山くんは俺と同じ大学」
「じゃあ影山も一人暮らしを?」
「と思ってたみたいですけど、あそこは親が心配性だから、変わらず実家通いだって。大学まで片道2時間」
「それはまた大変そうだなあ」
他愛もない近況報告で軽いジャブ。電話やメールでもできるような会話だが、こうして顔を合わせて話せるだけでも幸せだった。
だが、今日は絶対にそれだけでは終わらせない。気づかれない程度に少しずつ距離を詰めて、三国のすぐそばまで近づく。
この先輩は昔からパーソナルスペースが狭かった。誰でも簡単に隣に立つことを許し、対人距離がとても近い。だからこそ何度も冷や冷やさせられたものだ。
しかし今日いまこの時だけは、それも好都合だった。どれだけ近づいても、三国は不快に思わない。不思議にも思わない。
それでもようやく手が触れ合って、狩屋の近さにはっとする。
「か……、狩屋、今日は何が食べたい?」
「そうっスね。先輩が食べたいです」
「ばッ……」
狩屋の気を逸らそうとした三国が聞いたのでそう返すと、一気に三国の頬が赤くなった。
成人男性がこんな台詞で赤くなってどうする。他の男がそんな反応をしても萎えるだけだろうが、狩屋にとっての三国のその反応は余計に煽られるものでしかない。
だって、五年間。五年間もの間、ずっとお預けにされてきたのだ。
三国と付き合い始めた頃。かつて狩屋が中学一年生、三国が中学三年生であった頃、少しずつであるが手を繋ぐようになり、キスも許してくれるようになり、距離を縮めて行っていた。
初めて三国が狩屋一人だけを家に呼んでくれて、今日は母親の帰りが遅いから、と言われた時は完全にフラグだと思った。
子供かペットにしか見られていなかった狩屋が必死に己の中の男を総動員して、三国にキスし、それまでは中々できなかった深いキスを何度も何度も重ねて。
そうして、ここからはぜひベッドで――というタイミングで、三国は狩屋の胸を押し返したのだ。
『――狩屋、これ以上は』
『何ですか、センパイ。ベッドに行きますか』
思わずニヤつきながらそう聞く。だが、三国から発せられた言葉は期待のものとは違った。
『そうじゃない。これ以上は、……お前が高校を卒業するまでは、お預けだ』
『……は、……はァ!?』
キスによって頬を上気させ、潤んだ瞳で見上げた三国が放った言葉は、表情とは裏腹にしっかりとしていた。
そうして、五年間。三国の言葉通り、狩屋はひたすらに「お前が高校を卒業したらな」と「これ以上」を躱され続けた。
何度も何度もそのタイミングはあった。だって、中学生だ。中学一年生の頃はまだ浅かった性の知識も、多感な中学時代にどんどん吸収されていく。
目を瞑れば空想の中で三国が狩屋を誘っていたし、夢で見るのは三国の痴態だった。一体何度三国で抜いたか分からない。
三国に迫り、一度だけでいいから、と懇願したことも数知れない。だが三国は頑なに「狩屋が高校卒業したら」を繰り返して逃げて行った。
きっと三国は二歳も下の狩屋とそうしたことをするのが恥ずかしいと思っていたのだろう。狩屋と付き合うまでに交際していた人はいなかったようであるし、互いに童貞だ。
狩屋が三国に対して「抱きたい」という気持ちを強く持っていたということはバレていたと思うし、心優しい三国は確実に、男ながらにして受け身になることを受け入れる。
その心の準備が必要だということは分かった。分かってはいたが、五年間も本当に躱され続けるとは思わなかった。
しかしそれも、今日で終わりだ。長く苦しい禁欲生活だった。
「先輩、明日はバイトですか」
「……嫌な聞き方だな」
「だって!」
狩屋は思わず身を乗り出す。今更取り繕ったって無駄だろう。三国の手を取り、できるだけ真剣に、気持ちが伝わるように、視線を合わせた。
「先輩。とぼけさせませんからね」
「狩屋、」
三国の声は狩屋の唇に消えた。んむ、と触れさせた唇を一度離して、再びキスをする。
少しずつ深めていくキスに、三国の手が制止するように伸びてくる。これまでと同じ制止の方法。だが絶対に止めてやるものか。
狩屋の腕を掴もうと伸びてきた手を逆に掴んで、強く握る。指を絡ませて、大きく逞しい手のひらの指の股に力を込めると、三国の喉がごくりと鳴った。
「ッ……、狩、屋」
「先輩。これまで五年間。何度も何度も言いましたよね。俺が高校卒業するまで、これ以上のことはお預けだって」
狩屋は三国から唇を離し、ギリギリ焦点の合う至近距離でそう言う。三国が視線を逸らしたが、逃がさないようにと再び手を強く握った。
「ね、先輩。俺、卒業しましたよ。大学にも受かりました。俺の、一人の家もできました。約束、守ってくれますよね?」
熱っぽい視線で三国を射抜く。三国はしかし、そのまま黙っていた。ここまで追い詰めて、逃げ場をなくしたところで、あと必要なのは彼の覚悟だけだった。
「……あんまりだんまりしてると、勝手にやっちゃいますよ?」
狩屋が三国の首をくすぐる。そのまま指先を下へと辿らせ、鎖骨へ。そこにある窪みに指先を押しこめると、う、という声が三国の喉から上がった。
「お前、いつからそんなにデカくなったんだ」
「気づいてなかったんですか? 俺だってもう先輩くらい身長はあるし、キーパーの先輩には負けますけど、腕力だってあります。男として成長してますから」
頭二つ分ほどの身長差のあった狩屋と三国の身長差は、狩屋の成長と共にぐんと縮まり、三国と視線を合わせるのも容易くなっていた。
キスをするのも三国の手助けが必要だった昔とは違う。もう屈んでもらう必要もなくなった。
「愛しています。先輩」
三国の身体を服の上から手のひらで撫で上げて、熱い息を吐く。三国はくっと眉根を寄せて暫く黙った後に、――ようやく、頷いた。
「――分かった。狩屋。……何年も待たせて、すまなかった」
狩屋を見上げた三国は小さく微笑んでいた。決して短くもない時間、五年間かけて、ようやく彼の心の準備もできたようだった。
「はっ……。ホント、もう待ちくたびれちゃいましたよ。よーやく俺のものになってくれるんですね、先輩」
「ああ、しかし、お手柔らかに頼……」
「何言ってんですか! 溜まりに溜まった俺の五年分の気持ち、しっかり受け止めてくださいよ」
口の端を吊り上げて笑った狩屋に、三国は、仕方がないな、という溜息をついた。
2014.02.25
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