白い吐息が空中に消える。
非常に強い寒波が日本列島を襲います、と今人気らしいアナウンサーが言っていたことは間違いなかった。ここしばらくの冷え込みは厳しく、この季節は空調の効いた屋内グラウンドを使うことが多いサッカー部員はサッカー棟を出るなり首を竦める。
「それじゃ、俺たちはお先に。お疲れ」
「浜野くん、本当に行くんですかぁ? こんなに寒かったら釣れる魚も釣れませんってぇ」
「つーか魚には関係ないっしょ! 一乃も青山も、ほら行くよー!」
「勘弁してくれよ……」
浜野に速水、倉間、一乃と青山が連れ立って校舎の向こうへと消えて行く。その後ろ姿に手を振って、神童は霧野と共に天馬たちを振り返る。
「天馬、俺達も先に帰る。後は頼んだぞ」
「はい! 神童先輩、霧野先輩、おつかれさまでした!」
鍵を持った天馬ら一年生全員に軽く会釈をした。マフラーでぐるぐる巻きにされた天馬は、寒そうではあるが元気に頭を下げて二人を見送った。
三年生が引退して半年近くが経った。世間はすっかり受験ムードで、三年生の教室の前を通る時は思わず足を忍ばせてしまうほどだ。
引退後も頻繁に来てくれていた三国ら三年生もさすがに受験モードに切り替わり、このところサッカー棟で彼らの姿は見ていない。寂しいが、これはどうにも仕方のないことだった。
「それにしても寒いな。神童、これ飲まないか」
「何だ? それは」
鼻の上までマフラーを巻いた霧野が道端で止まり神童を手招く。霧野の示したものを見て、神童は首を傾げた。
「……? 自動販売機は、ジュースだけじゃなくスープも売っているのか?」
「スープもだし、おしるこなんかもあるぞ。あったかいのが欲しいだろ」
神童の返事を聞かないまま霧野は百円玉二枚を自動販売機に投入し、二つのボタンを押した。がこん、がこん、と軽い音が二回鳴る。
「はい。コーンスープとおしるこ、どっちがいい?」
「じゃあ、コーンスープで」
「分かった」
手袋をした霧野の手から小さな缶を受け取る。思っていたよりも熱い缶が神童の素手を暖めた。
「これは、何か皿に出したりしなくていいのか? そのまま飲むのか?」
「ああ、そのための缶だからな。コーヒーを飲むみたいに、ぐいっと」
「なるほど」
スープを缶で飲むというのは、神童にとっては考えもつかなかった新しい発想だった。しかしジュースを缶で飲むことを考えればスープだって飲み物で、なるほど、原理は同じような気もする。
缶のプルタブを開け、コーンの香りに誘われるがままにぐっと缶を傾ける。
が、
「――熱っ!」
「そりゃ熱いさ。手で持っても熱かっただろ」
想像以上の熱さが神童の舌を焼いた。ここまでとは思っていない。
「はっへ」
「それにお前は猫舌なんだから、もう少し熱いものに警戒しろ。冷たいもので冷やすか?」
自動販売機の、いかにも冷えていそうなジュースを指差して霧野が聞く。そんなことをしては和らげるはずの寒さも加速するだけだ。緩く首を振って、神童はぴりぴりする舌を冷たい外気に触れさせ冷やした。
そんなやりとりをしていると、後ろから声がかけられた。
「おーい、神童に霧野じゃないか! 久しぶりだな!」
「三国さん!」
ウインドブレーカーにネックウォーマーという恰好で白い息を吐く三国が二人に声をかけてきたのだった。寒そうではあるが鼻の頭と耳が赤らんでいて運動していたのが窺える。
「どうしたんですか? こんなところで会うなんて」
「勉強の息抜きにジョギングをな。お前達は今帰りか」
「はい。お会いできてうれしいです」
神童が微笑むと三国も目を細めて笑った。しかし、と三国がもの珍しそうに神童の手の中のものを指差す。
「ずいぶん、らしくないものを飲んでるんだな。霧野か?」
「はい。初めて教えてもらったんです」
「美味しかったか?」
「いや、まだ」
神童の代わりに霧野が説明する。熱くて飲めなかったんですよ、というと、三国は納得して小さく笑った。
「なるほどな。神童は猫舌だから」
「う……」
自分のことをよく分かっている霧野と三国、二人から同じことを言われ、神童は思わず唸った。
「まあ、もう少し冷ましてから飲めばいいさ。初めての缶スープの感想、教えてくれよ」
ぽん、と励ますように三国が神童の肩に手を置く。久しく会えていなかった先輩とのやり取りに、神童も霧野も寒さを忘れて和やかに会話する。
「三国さんは、本命の試験まであとどのくらいでしたっけ」
「ああ、もう来週末だから、一週間くらいだな。いよいよ大詰めだよ」
「あと少しなんですね。俺達サッカー部も、全員で応援しています」
そう言うと、ありがとう、と人の良い笑みが返ってくる。つくづく憎めない人だ。
霧野は手にしていたおしるこの缶をぐいっと一気に飲み干して、自動販売機の脇に置かれたゴミ箱に捨てた。
「悪いが、俺は一足先に帰るよ。身体も温まったし。神童はそれ、飲み干してからここに捨てて帰れよ。家に持って帰ったら俺が執事の人たちに怒られそうだ」
「怒られる? 何故だ?」
「拓人様の舌を百円の味に慣れさせたらマズイだろ」
冗談めいてそう言った霧野の真意が、彼なりの優しさだと気づくのに時間はかからなかった。霧野は神童にこの場に留まらせ少しでも三国と二人で会話させてあげるために去ろうとしている。
小さく笑ってありがとうと言うと、霧野も口の端を上げて笑った。
「じゃ。また明日、朝練でな」
「ああ。また」
「気を付けて帰れよ、霧野!」
霧野の背中に声をかけて見送る。途端に二人きりだ。三国も霧野の優しさに気づいているらしい。少しはにかみながら、神童を見下ろした。
「せっかくだから少し話さないか」
「はい。あの、どこか座りますか」
「じゃあ、あそこの公園のベンチに」
三国が指をさしたのは少し離れた場所にある公園だ。公園と言っても大した遊具はなく、広場にトイレとベンチがある程度の場所だ。
晴れている温かい日ならば子供たちで賑わう場所だが、夕飯時ということと、この寒さでは人は誰もいない。端に置かれたベンチに心持ちスペースを開けて二人並んで腰掛けた。
「べ……勉強は進んでいますか」
「おかげさまで。スポーツ推薦もあるから、ここまで必死にならなくてもいいと思うんだけどな」
三国の進む予定の高校は、サッカーで名の知れた学校だった。これまでも多くの雷門中サッカー部員がそこに進んでいる。
革命を起こし、これまでの通りにサッカー部の活動が受験に大きく影響するわけではなくなったと言っても、純粋なスポーツ推薦というものは残っている。
昔からよく知られている雷門中学で一軍をつとめ唯一の枠であるゴールキーパーとしての功績を残してきた三国は、それに値するだけの実力を持っていた。
しかしそれでも、普通に勉強をして受験をしている人たちよりも著しく学力が劣ってはならない。
「車田さんや天城さんも?」
「あいつらもがんばってるよ。車田がこんなに長い時間机に向かってるなんて人生で初めてなんじゃないか?」
三国が笑う。神童もその姿を想像して、くすりと笑った。
「三人とも同じ高校に進むんですよね。来週の試験で受かったら、またサッカー部に遊びに来てくれますか」
「ああ! 絶対に受かって行ってやるよ。身体も鈍って仕方がないしな」
三国は大きく頷いた。
「ところで、それ、もう冷めたんじゃないか? そろそろ飲めるだろ」
「あ……、忘れてました」
言われて、ようやく手の中のぬるい缶の存在を思い出す。底冷えの空気に当てられて、熱湯の入っていたそれも普通に持てる温度になっていた。
恐る恐る缶を傾けてスープを口の中に入れる。小さなコーンのつぶが一緒に神童の口に入り込む。想像していたよりもずっとコーンスープだ。
「どうだ? 口に合うか?」
「……美味しいですね」
「それはよかったなあ!」
幼い頃から親しんできた庶民の缶スープを褒められたことが嬉しいのか、三国は自分の作った料理が褒められたときのように喜んだ。
「そのスープはな、最後には絶対に底にコーンが残ってしまうんだ。だから飲むたびにちょっとずつ振って飲むんだぞ」
「ふ、振る? スープを振るんですか?」
「そうだ。そうしたら底に沈んでるコーンが浮かぶからな」
スープとはスプーンで掬って飲むものでしかない神童に、三国が楽しそうに指導する。最後に缶の底に残ってしまったコーンがいかに勿体ないものであるか熱弁されて、神童はそんな三国を微笑ましく、そして愛しく思った。
思わず無意識に伸びた手がベンチに置かれていた三国の手に重なる。外だから、二人きりのときのように触れ合うことはできない。いくら人が周りにいないからと言って、恋人としての触れ合いはダメだ。
分かっているが、ずっと触れていなかった好きな人を相手に、神童は堪えられずに三国の手をきゅっと握る。三国も己の左手に触れた温もりにはっとして、少し頬を紅潮させた。
「神童、ダメだぞ」
「わッ……、分かって、ます」
窘められて、頷く。分かってはいる。だが、触れたい。こっそりベンチの上で手を繋ぐ程度なら許されてもいいだろう。その気持ちを込めて三国の手を少し強めに握ると、三国も握り返してくれる。
何度も何度も、ただ手を繋ぐ以上のことをしてきているのに、久しぶりに手を繋ぐだけでたまらなく緊張した。寒さなんてどうでもいいくらいに心臓が早鐘を打っている。
「もう少しだからな。俺もあと少しで解放されるから」
「でも、そうしたら今度は三国さんが卒業してしまう。更に会えなくなります」
「それはそうだが」
三国が困ったように苦笑する。
「引っ越すわけじゃないんだ。週末でもいつでも、すぐに会えるよ」
「はい……」
それでも眉間に皺を寄せている神童に、三国は軽いため息をついた。くい、と神童の腕を引く。
「っ……!?」
「ん、やっぱり美味しいなあ、これ。でも俺のほうが美味しいスープが作れる。再来週、俺の家に呼んでやる。もっと美味しいコーンスープを飲ませてやるから」
己の唇を舐めて三国は言った。神童は信じられない気持ちで、今しがた唇に触れた感触に固まる。
こんな場所ではダメだと言った三国が自ら神童にキスをしてくれた。本当に一瞬であったが、この唇に残る感触は確かだ。
「ど……、どこまで俺を弄べば気が済むんですか、三国さん……」
「弄んだつもりはないけどなあ。まあ、再来週を楽しみにしててくれよ」
ぎゅ、と再び手を軽く握られて、神童は行き場のない思いを右手に託して大きな手のひらを力強く握り返した。
2014.02.13
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