神様仏様、あとなんかよく分かんねえけど神サマっぽいもの、ゼウスでもガイアでも神童センパイでもなんでもいいので、俺に勇気と度胸をください。


「お、ようやく上がってきたか。長かったから心配してたんだぞ。湯加減は大丈夫だったか?」
「あッ、ハイ! 絶妙な湯加減でした!」
 一瞬声が裏返った。だが三国は特に気にした様子もなく、濡れた髪をぴんと跳ねさせた狩屋の頭を大きな手のひらでぽんと撫でた。
「そうか。じゃあ俺も湯が冷めないうちに風呂に入ってくる。テーブルに飲み物とアイスを出したから、それでも食っててくれ」
「ハイッ! いってらっしゃいマセ!」
 どうにも始終声が裏返る。いっそ気づいてくれたらいいのにと思うくらい三国はいつもと変わらず、タオルと着替えを手に、今しがた狩屋が籠って精神統一していた風呂場へと消えて行った。

 狩屋は今、三国の家にいた。三国の母は出張で不在。そしていつも一緒の天馬や信助たちもいない。完全に二人きりの家だ。その上、今日は記念すべき初のお泊まりだった。
 狩屋がしつこくアタックを続け、半ば三国が折れるような形でようやく手に入れた恋人の座。しかし毎日が狩屋の一人暴走である感は拭えず、恋人という肩書になったはずであってもやはり三国は狩屋を弟かペットのようにしか思っていないように見える。
 その三国に、このお泊まりで「恋人」のなんたるかを思い出させ、もしくはみっちり叩き込んでやる――と、狩屋の今日の目標はそこだった。
 だって、恋人になったのに、手も繋がない、キスもろくにさせてくれない。こんな状態では、中学一年生の色欲いっぱいの頭では、物足りなさを感じて当然じゃないか。頭の中の妄想ばかり膨らんでいる狩屋には、もう少し刺激になるものが欲しかったのだ。
 だが、そうは言っても三国のガードは堅い。ゴールを守るその手にぐいっと押しのけられるのは、さながらボールになった気分だ。そこまでして守らなくてもいいではないか。
 そして狩屋にも、勇気か度胸か、一歩踏み出すものが足りない。行動したい気持ちはあるのに、気ばかりが急いてどうしようもない。
 だから、今日は、今日こそは。サッカーでディフェンスばかりしている狩屋も、ゴールにシュートを決めるFWのつもりになって、三国に恋人らしいことをするのだ。

「…………って言ってもなァ……」
 テーブルに置かれていたスプーンでバニラアイスを掬い、口の中に入れる。瞬間に舌の上で溶けて甘い香りが広がった。
「センパイ、俺のこと本気で喋る犬かなんかだと思ってるし。こないだはジャーキーくれたし」
 店で見かけてつい狩屋にあげたくなったんだ、とはにかんだ笑みで渡してくれたものがキーホルダーとかアクセサリーとかならよかったのに。よりにもよってジャーキー。犬用のものではなかっただけましか。ギリギリ人間と思われてたってことか。
「俺がちゃんとやる男だってのを見せないと……センパイのガードをどう崩すかがまず重要だよな……」
 ぼそぼそ、独り言を呟きながらアイスを口に入れる。狩屋の舌の好みをよく理解している三国の選んだアイスは、市販のものではあるが極上に美味しかった。
「まずセンパイが風呂から上がってきたら……サッカーの話題振りつつ……こう……」
「どうした、狩屋? サッカーが何かあったのか?」
「うわッ!?」
 いつのまに上がったのか、三国が肩からタオルをかけてそこに立っていた。狩屋の突いていたアイスもすっかり溶けている。悩むあまり、時間の経過に気づいていなかった。
「お、おかえりなさい! てかあの、アイスまでごちそうさまっす!」
「美味しいか? 狩屋が好きそうだなと思って買ってみたんだ」
「ハイ、もうメチャクチャ」
「そうなのか」
 独り言を聞かれていたかもしれないと心臓をバクバクさせながら必死に取り繕っている狩屋の右腕に手を伸ばし、三国は狩屋の手ごとスプーンを掴んでその上に乗ったアイスを口に運んだ。
 今の今まで狩屋が使っていたスプーンだ。そして狩屋が掴んでいるスプーンだ。間接キス。疑似あーん。どう呼べばよいのかも分からない。狩屋の思考は停止した。
「お、ほんとだ。甘い割にさっぱりしてて、いいな」
 溶けたアイスを舌の上で転がして、三国は顔を綻ばせた。ああ、いい表情だ――じゃなくて。
「セッセセセセンパイ! なにしてんスかっ」
「ん、もしかして貰っちゃダメだったか。ごめんな狩屋、今度また買ってくるよ」
「そーじゃなくてぇッ」
 呆ける三国に、慌てている自分がバカみたいだ。スプーンも何もかも放って、真っ赤になってしまった顔を隠すように濡れたまま放置していた髪をタオルで覆った。
「乾かすならドライヤー使うか?」
「いりません!」
 つい、口調が拗ねた子供のようになる。自覚はあるが、どうにもできない。頬をむくれさせたままごしごししてると、その手にまた大きな手が触れた。
「こ、今度はなんなんスか」
「俺が乾かしてやるよ。アイス、完全に溶けちゃうぞ」
「いや、流石にセンパイにそんなことさせられないッス、ほっといてください」
 拗ねた口調のまま、しかし赤い顔を見せられずにそっぽ向いて返事をすると、三国が後ろでクスリと笑った。
「狩屋、なあ。そんなに変に構えるなよ」
「……ッハァ!? 俺がいつ何にどう構えたって言うんですか」
 仄めかすような三国の言葉に、つい後ろを振り返る。立ったままの三国はずっと見上げる位置で、楽しそうに笑っていた。
「今日のお前はずっと緊張してるだろ。あと変なことを考えてる。それくらいは俺にだってわかるぞ」
「な、なんスかソレ? センパイ、意味わかんないッス」
「そうか? 俺にはよく見えるけどなあ」
 三国の手が濡れたままの狩屋の髪を掻き分け、露わになった首筋に触れた。二つ年上の、そしてゴールを守っている三国の手は、狩屋のまだ幼い身体の首と比べると非常に大きい。分厚い皮に覆われた手のひらが太い血管の脈打つ首筋に触れた瞬間、血流は速度を増した。
「セ、センパイ?」
「狩屋は、俺とどうしたいんだ?」
 楽しそうに、だが少し意地の悪い顔で三国が問いかけた。どうしたいか、なんて。正直に答えていいものだろうか。しかし答えは決まっている。
「んな……、センパイと、その……色々? したいです」
 語尾が小さくなっていったが、三国もその答えは重々承知していたらしい。面白そうに笑った。
「色々ってなんだ?」
「色々って〜その……」
 ごにょごにょ、という言葉のどこまでが伝わっただろうか。いや、全て伝わっているだろう。だって三国はまだ笑っている。
「でもなあ狩屋、その前にやっておくべきことがあるんじゃないか」
「へ? 何の話ですか?」
「順番があると思うんだよ、それの前にさ」
 しかし、狩屋にはその答えが思いつかない。好きですと告白して、手を繋いで、キスをして、その先に進む。そんなテンプレートしか知らないのだ。キスまでしたのだから、その先に進んだっていいじゃないか。
 三国は狩屋を立たせて、今度は自分が椅子に座った。身長差から、こうしたほうがずっと互いの顔の距離が縮まる。
 微妙に自分よりも下の位置におさまった三国を見下ろして、意図するものを探った。
「は……?」
「知らないか? キスにも種類があるってこと」
 狩屋の首筋にあった三国の手が移動して、唇に指が添えられた。かさかさに乾いた下唇に大きな親指が触れる。それだけで狩屋の脳天には血が上った。
「ど、どういう意味ッスか、それ……」
「ほんとに知らないのか。舌を使うんだよ」
「し、した? って、ベロ?」
 狩屋は一転、眉間に皺を寄せて首を捻った。キスとは唇と唇を合わせることではなかったのか。一体どこから舌が出てくるのだ。いや、口の中からだけども。
「そう。舌同士を、こう、あわせて」
「まッ、まって下さい! わけわかんねーっす!」
「ディープキスも知らないんじゃ、まだまだ先は長いなあ」
 三国は心から楽しそうに笑う。そうして笑われると、なんだかとても悔しい。狩屋はかちんときて、三国のがっしりした肩を掴んだ。
「ば、バカにしないでくださいよ。俺だって、そ、そのでぃーぷきすってヤツくらい」
「へえ。じゃあ頑張ってくれ」
「ようはベロ出せばいいんですよね? ベロ出して……なんかすればいいんですよね」
「そんなに単純なもんでもないと思うけどな」
 そういえば、昔おひさま園で何故か流れてた洋画で男と女がなんだか不思議なキスをしていた気がする。その時は見ちゃいけないものを見た気分になってよくは見なかったのだが、きっとあれがそうだ。
 狩屋は両手で三国の肩をぐっと掴み、顔を近づけた。
「し、しますよ! 俺はしますよ!」
「おうおう」
 三国の笑う息が狩屋の唇にかかる。焦点も合わないほど近くに顔を寄せる。
 ろくにキスもさせてくれない三国がこうして狩屋にチャンスを与えてくれたのは奇跡に近いのだ。これを無下にすることはできない。よく分からないが、なるようになれだ。
 キスをする前に目を閉じてしまうと唇にうまく当たらないというのはごく最近学んだ。三国の瞳が瞼に隠れたのをギリギリの焦点で確認して、狩屋はぐっと唇を押し付けた。
「……、……」
 とりあえず、唇には当たった。第一関門突破だ。最初はこの第一関門すら突破できなかったのだから、人間は進歩するものだ。
 これまでは、こうして唇を当てて数秒、じんわりと温かさが広がって満足して終わりだった。だが今日はここからが本番。
「(舌を出す……舌を出す……)」
 奥のほうで縮こまっていた舌をおずおずと伸ばし、三国の唇に触れた。乾いているが弾力のあるそれは、唇で触れたときよりもずっとリアリティがある。
 上唇と下唇の間に舌先を滑らせる。閉じられた三国の唇はそれに応えず、だが拒むこともなく狩屋の舌を受け止めていた。
 本来は、ここで気づくべきだった。だが経験値ゼロの狩屋では、無理な話だった。
「(舌を……、舌を……どうすんだよ……!?)」
 今の狩屋は、さながら、飼い主の口のまわりについた食べ物を舐めとる犬のようだ。ぺろぺろ、ぺろぺろ。応える舌がなければ、ディープキスは成立しない。
 いつまで経ってもそこから先にいけず、狩屋は痺れを切らして顔を離した。
「だーッ!! ほんとにこれで合ってんスか!?」
「今のはただ狩屋が舐めてただけだな。ディープキスをするなら、それに至る前にその気にさせることも重要だぞ!」
「ハァ!? もうからかうのはやめてくださいよ!!」
「あはは、狩屋がかわいくてつい、な!」
 大きく笑った三国に、なけなしの勇気を絞ってしたキスとはなんだったのかと、がっくり肩を落とし溶けたアイスもどうでもよくなった狩屋だった。


2013.5.26

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