ざあざあと降り注ぐ雨の音がうるさかった。

 校舎の入り口、下駄箱の前。
 他の部員よりも多くこなした自主練習を終えて三国がそこへ向かうと、南沢が薄暗い空を見上げて佇んでいた。
 声をかけると気だるげな声と表情が返ってきて、この雨に辟易している南沢の心情がとてもよく分かった。

「帰らないのか?」
「帰れないんだよ。傘盗られて」
「盗られた?」

 南沢がそう言うので傘立てを見ると、そこに傘は一本もなかった。意外にしっかりしている南沢が、昨日の夜の天気予報から言われていた雨に傘を持ってきていないわけがない。
 つまり本当に、言葉通り傘を盗まれたらしい。
 恐らく傘を用意していなかった生徒の軽い気持ちの盗みだろう。借りただけかもしれない。
 そして、ここに傘がひとつもないということは。

「……俺の傘も盗まれた……」
「だろ。お前の傘で帰ってやろうかと思ったらお前のも無いでやんの」

 南沢の盗み未遂発言は置いておくことにして、三国はがっくりと項垂れた。
 ジャージだけで帰るのならともかく、鞄には大事な教科書も多数入っているし、制服も濡らして帰れない。
 走って帰るには少し家は遠く、雨の強さもなかなかだ。
 校門すら見えない強さの雨に天気予報の言葉を思い出す。「夕方からの強い雨は2、3時間ほどでやむでしょう」。

「やむのを待つか?」
「それしかないだろ。この雨を走る勇気はない」

 はあ、と三国は深くため息をついた。こんなことならもう少し自主練習でもしておけばよかった。
 だがもう制服に着替えてしまってはまた汗と泥にまみれるのも面倒で、勉強でもして待つのが賢明だろう。

「南沢はずっとここで待つのか?」
「いや……、三国はどうするんだよ」
「俺は教室に行こうかと思うんだが。あ、よかったら数学教えてくれないか」
「仕方ねえな。暇だし付き合ってやるよ」

 三国が思いついて提案すると、南沢は乗ってくれた。いい暇潰しだと思ってくれたのだろうか。
 早速二人は、雨がやむまでの時間を教室で過ごそうと向かった。





「だからここの問題はこれじゃなくてこっちの式を……」
「ん……、こうか」
「計算間違ってるぞ」

 他には誰もいない教室で、二つの机をくっつけて教科書とノートを広げる。
 南沢と三国はお互いに苦手科目と得意科目があべこべで、授業の疑問点がある時にはお互いとても助かった。
 三国がノートにペンを走らせ、南沢の指摘した部分を直していく。するとどうしてもおかしな答えになっていた問題があっさりと解けてしまった。

「解けた! なるほど、これを使えばいいんだな」

 ようやく辿りつけた答えにうんうんと頷いて三国は満足げにノートを見た。
 だがすぐに新しい問題に気付いたようで、ノートを隣に座る南沢のほうへと少しずらす。

「じゃあこの問題はどうなるんだ? さっきとは違うが……」
「これも同じだよ。お前は難しく考えすぎなんだ」

 額を突き合わせるようにして二本のペンがノートの上をせわしなく動く。南沢の説明を聞くたびに三国が頷いた。
 二言三言交わしながら答えまで導く。その合間に三国の低くも優しい声が頭頂部にかかるのが気になって、南沢は口を開いた。

「……お前、キスしたことあるか?」

 突然の言葉に三国は目を丸くさせた。何を言っているんだ、という声が聞こえた気がした。
 そんな三国に南沢は動じず、目を細めて首を傾げて、自分が一番魅力的に他人に映ると良く分かっている悪魔的な表情で問い詰めた。

「キスだよ、キス。親とじゃなくて、女子と」
「な、なんで」
「気になったからに決まってんだろ。彼女がいたとかいう話も聞かねえし」

 一度頭が勉強から逸れてしまうと一直線で、南沢はペンを置いて頬づえをついた。
 そういえばサッカー部員と恋愛話をしたことがなく、いつでも顔を合わせればサッカーの話ばかりだった。良くも悪くもサッカー馬鹿の集団なのだ。
 だからこそなんだか新鮮で南沢の好奇心も湧いてくる。
 三国は突然の質問に驚きつつも、問いかけの内容とその答えに顔をほんのり赤くさせて咳払いをひとつした。

「そんなことどうだっていいだろ。それよりこの答え……」
「じゃあ当ててやろうか」

 南沢はノートに向き直る三国のペンを奪った。身を乗り出して三国の椅子の背もたれに手をかける。
 距離がぐっと縮まったことで三国が身を僅かに引いた。

「彼女いない歴14年、ファーストキスは親。いつか彼女ができる日を夢見て妄想の毎日、だろ」

 すらすらと南沢が言うと三国は顔を逸らした。頬に赤みが増していて、図星であることが窺えた。

「別に、彼女がいないのは恥ずかしいことじゃないだろ……。そういう南沢はどうなんだよ」
「俺? どう思う?」

 三国も反撃しようと思ったのか、南沢に問いが返ってきた。だがこれくらいは予想通りで、南沢は余裕そうに口端を上げた。
 そんな反応をされたら困ってしまうのは三国のほうで、眉間に皺を刻ませて南沢を見た。

「……、今は内申が彼女に見える」
「はは。あながち間違いじゃないな」

 三国の精いっぱいの皮肉だろう。だが中々に良いところを突いている。
 内申を上げるために成績と部活に力を入れていたら、好きな人ができる余裕も彼女を作る余裕もなかった。
 何度か女子に告白をされたことはあるが、デートをしている暇があったらボールを蹴ったり参考書の一冊でも解いていたほうが有意義に感じられたのだ。

「俺もキスなんてしたことねえよ。女なんて面倒臭いし」
「それも意外だな。することはしてそうなのに」
「どういう意味だ」

 三国を睨む。だが三国は南沢も自分と同じであることを知ってほっとしたのか、少しの余裕を取り戻して笑った。
 それが面白くなくて、南沢は離れた体を三国に寄せて顔を近づけた。

「なあ、ちゃんとしたキスがどんなものなのか、興味ないか?」
「は……?」

 南沢が滑らかな指をするりと三国の頬にかける。ちょっとからかってやろうかと思ったのだ。
 しかし三国は至近距離の南沢に予想以上にうろたえて、先程以上に顔をひどく赤くさせた。

「っは、離れろ! 南沢!」

 その反応に南沢は腹の底がくすぶるのを感じた。
 思わせぶりにからかってすぐに解放してやるつもりだったが、もう少し遊んでやってもいいかもしれない。
 とは言っても南沢にもこんな経験はなくて、目と鼻の先まで近づいた三国の意外に整っている顔にどきりとした。

「お互い練習だと思ってさ、やってみないか。キスとしてはノーカウントってことで」
「何……言ってるんだ、馬鹿」

 そう言う三国の口調にも覇気がない。いつの間にかお互いの吐息が唇にかかるほど間近にいた。
 男同士、部員同士、友達同士。
 きっとキスの相手にするには嫌悪感を抱いて然るべきな関係なのに、南沢には全くその感情がなかった。
 むしろ、うろたえつつも雰囲気に圧されて流されそうになっているこの三国となら、このままキスしてみたいと思った。

「抵抗しないならやるぞ」
「……ならこの手を離せよ」
「このくらいお前の力なら剥がせるだろ」

 三国は卑怯だ。三国の頬にある、大して力を入れてもいない南沢の手を理由にして逃げている。
 手に触れる三国の頬はとても熱くて、その熱が南沢をも熱くさせているような気がした。
 頬が熱い。
 それを三国に気取られないように、南沢は顔をくっと近づけて、三国のそれに押し当てた。

「っ…………」

 柔らかい。まず最初にそう思った。
 乾いた皮膚の弾力が唇に当たっている。きっとそれは三国のほうも同じだ。
 そして触れた瞬間、全身の毛穴がぶわりと開いた気がした。脳の中心がかっと熱くなり、思わずぼうっとした。
 これが、気持ちいいということなのだろうか。
 南沢にはそれが分からなかった。だが確実に言えるのは、最後にいつしたのかも分からない親とのキスとは全く違うということだった。

 ……三国はどうなのだろうか。自分と同じように何かを感じているのだろうか。
 南沢はいつか何かで見た記憶を引っ張り出して、ほんの僅か唇を離すと三国の唇をぺろりと舐めた。

「っ!?」

 すると三国の肩が思い切り跳ねた。南沢の舌が這っていることを認識できただろうか。
 南沢は三国の頬に当てていた手をするりと下ろし、硬く引き結ばれた唇を親指でなぞった。

「……べろ、出せよ」
「そ、こまで……」
「ノーカンだって」

 これはただの遊び、練習だ。そう言い聞かせると三国もおずおずと舌を出してきた。
 べ、と僅かだけ、赤い舌の先だけが顔をのぞかせる。それに南沢は自らの舌を突き合わせた。

「んッ……」

 唾液で舌がぬるりと滑る。映画を見てもよく分からなかった大人のキスは、未経験の二人が想像だけで実践してもたどたどしかった。
 それでも自分以外の人間の舌と舌が絡む、その事実が体を熱くさせる。
 男同士だとか、友達同士だとか、そんなことは問題ではなかった。相手が誰だからと考える余裕もなかった。
 キスなんてと馬鹿にしていたのに、ただ唇と舌を合わせるだけなのに、とても気持ち良かったのだ。

「は……っ」

 ちゅ、と音を立てて唇が離れる。顎にまで伝った唾液を手の甲で拭って南沢が息を吐いた。

「これ、ヤバいかも……」
「ッ……!」

 南沢の顔を見た瞬間、三国も我に返ったのだろうか。がたんと大きな音を立てて椅子から立ち上がると真っ赤な顔のまま唇をごしごしと擦った。
 今までキスしていた相手がここにいるのになんて失礼な奴だ。
 そのくらいの文句は言おうと口を開こうとしたのに、三国は慌ただしく鞄を掴むと、南沢のほうを見ず、つかつかと教室のドアへと向かった。

「ちょっ、おい、どこ行くんだよ!」
「帰る! じゃあな!!」

 まさか強引にキスをしたから嫌われたのだろうかと思ったが、三国の後姿から見える耳が真っ赤だ。
 止める間もなく三国は出て行ってしまい、南沢がただ一人残された教室に、さっきまで全く聞こえなかった雨の音がうるさく響いた。

「……あいつ、傘どうするんだよ……」



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2012.03.21

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