体の芯に響く重い一撃で、智樹の目ははっと覚めた。 寝室の壁や天井が斜めに映る。右半身からフローリングの冷たさが伝わった。 離れた場所に、点滴が転がっていた。その視界にぬっと影が差す。 ぼんやりした影に段々焦点が合っていく。 「無視してんじゃねーぞ、クズが!」 もう一度、腹部に攻撃を受けた。 傷んでいた髪は以前よりも酷く、きつい目元には隈がくっきりついていた。 少しやつれたように思えるが、間違いなく智樹を虐めていた少年、その人だった。 咳き込む智樹に構うことなく、二発、三発と蹴りを入れる。 前までは絶対に狙わなかった顔面にまで容赦はしない。 「俺はなぁ、てめぇのせいで事務所クビになったんだよ!ざけんじゃねーぞ、コラァ!」 「がっ……はっぐぅっ……げほ、げほっ!」 智樹に防御する隙も与えることはない。 「最後の日にって貰った仕事が何かわかるか?てめぇの世話だよ!クソ!」 不意に、少年は動きを止めた。 すぐさま身を固め、次に来るであろう衝撃に備えた。 が、しかし何も起こらず、それどころか物音ひとつ立たない。 智樹の荒い息だけが寒々とした空間に充満する。 不審に思った智樹が顔を上げると、感情も何もないがらんどうな瞳が見下ろしていた。 一気に鳥肌が立った。 「16の時に夜の街で佐野さんを見た時からよぉ、俺は一生この人についていきてぇって本能で感じたんだ。この人の為なら喜んで死ねるってな」 さっきまで感情を露に激しい怒りをぶつけてきたのに、一転して淡々とした口調が智樹には恐ろしかった。 「それから学校辞めて、事務所に入れてもらって、パシリみたいに扱われても文句言わずに尽くしてきたんだよ。先輩らから何言われても、俺は佐野さんのために何だってやった。一回ミスったら捨てられるってわかってたから必死に食らいついてきたんだよ」 そう言いながら、少年はじりじりとにじり寄ってきた。 逃げ出したかったが、恐怖で体が硬直している。 「なのに、お前は何なんだ?佐野さんが迷惑してるっつうのに、図々しく付き纏いやがって。おかげで俺の人生終わりだよ。今までやってきたことが台無しだ」 だからな、と言うとすっとポケットから鈍く光る物を取り出した。 「お前殺して、俺も死ぬ」 最後まで静かな物言いで語ると、まるで機械のように手にしたナイフを智樹の腹に振り落とした。 「やっ……やぁっ……あっ」 パニック状態の智樹は、とにかく必死で少年を抑えようと試みたが、刺したナイフを抜くとまたも貧弱な体に突き立てた。 痛みよりも、血液が体外に流れ出る感覚に、死を目前に感じた。 (僕、死ぬんだ、死んじゃう) そう思うのと同時に、今までの記憶が一気に流れ出す。 父と母との思い出、そんな両親の葬儀、争う親戚の声、叔父一家のぎこちない笑み、それからの仕打ち。 辛い記憶ばかりの中、佐野の顔が浮かぶ。 鷹のように鋭い目つき、馬鹿にしたような顔、乱暴な行為。 叔父一家以上に酷かったけど、所々暖かくもあった。 繁華街で絡まれた時に助けてくれたこと、そして追いかけていたあの時、智樹が遅れそうになると歩調を緩め、見失いそうになると立ち止まってくれていた。 クローゼットなんかを宛がった癖に、倒れれば客室のベッドに寝かせてくれた。 錯乱した智樹を優しく抱き締めてくれた。 そこで智樹の走馬灯は消えた。 そして3度目の刃が振り上げられたのを見て、反射的に目を瞑る。 (佐野さん、やっぱり僕は佐野さんが好きだよ) 最期に智樹の心に残ったのは佐野のことだけだった。 床に重い振動が走った後、からん、と小さい音が鳴った。 ふ、と体を引っ張り上げられ暖かいものに包まれた。 思わず目を開けると、眼前にずっと焦がれていた人がいた。 「……佐、野……さ……」 ほとんど呟くように言うと、佐野はほっと一息ついた。 「とりあえず病院行くぞ」 そのまま、智樹を横抱きに持ち上げると早足で部屋から出る。 その時、視界の端に横たわった少年の姿が見えた。 何故だかはっきりしない意識の中、服が真っ赤に染まっていることに気付いた。 「僕……死ぬんです、か?」 「これぐらいで死ぬか。とにかく今は喋るんじゃねぇ。余計な体力使うな」 そう言うと佐野の歩調が早まった気がした。 智樹はどういうわけか、安心しなかった。 それよりもとにかくもう休んでしまいたかった。 考えるということをしたくなかったのだ。 「いいんです……もう」 「だから、喋るなって、」 「僕、なんか疲れて……このまま、どこかに捨てて、くれませんか?」 「何言ってるんだ、お前!それこそ死ぬだろうが」 それでいいんです、と弱々しく答えると智樹は深い眠りに落ちた。 << >> |