「密、道に迷った時は必ずお父上を呼ぶのですよ?」
「はい、母上」
「……市、密が行くのは隣の山だ。人の足でも数刻で着く距離だぞ」

眉を下げ涙目になった妻、そして見送られる息子、そんな妻を少々呆れ顔で見遣る夫。
今生の別れのような挨拶を終えると、妻は膝から崩れ落ちた。
寸でのところで夫がそれを受け止めたが、その身体は小さく震えていた。

「密……どうか無事で……!」
「いや、だからな、市。あいつは早々何かあることはないだろうし、仮に迷ったとしても本来の姿になれば一飛びだ。そう案ずることはない」

そもそも危険などないに等しいのだ。
この辺りはどの山も神が治めており、良からぬことを考える不届き者など入る余地はない。
もし何者かに襲われたとて、九つを数えた倅が簡単にやられるわけもない、水神はそう思った。

密は人型に化けると、凡そ十四、五程の少年に見えるくらいに成長していた。
最早、市と並べると親子とは呼べぬ程立派に育っていた。
背丈も父親に似たのか市を少しだけ超えており、顔立ちは水神そっくりに凛々しくしかし目元は柔和で、毒気を抜いた水神のようだ、と友人らは茶化した。
後三年もすれば大国主様に謁見し、その際どこかの山の主に任ぜられるだろう。
それまでに他の神々へ顔見せとして近辺の山々へ挨拶回りをさせることとなったのだ。
そして、今日こそがその日だったのだが、市は前の晩から泣き明かし、今朝は泣きこそしなかったが、瞳には零れ落ちそうな程雫を溜めていた。

水神は市を包み込むように抱き締めると、ついにその雫を塞き止めていたものが決壊した。
妻と出会い十年の月日が過ぎたが、年々感情豊かに、それまで蓋をしていた“子供らしさ”が開いたかのように、市は泣いたり笑ったりと大忙しだ。
そんなところも愛らしい、と水神は目尻を下げその濡れ羽色のしっとりとした髪を撫でた。

「さあ、市。寝屋に戻るぞ」

片腕で体を持ち上げると、市はぎゅっと首に抱きついた。
中庭に面した廊下を歩いていると、突如庭から飛び出してきた塊が水神の足元にくっついた。

「お父様!僕も抱っこして!」

それは十くらいの少年だった。
妻と同じ髪色に湖を映した瞳を持つその少年は、紛うことなき水神と市の子である。
六年前、市に乞われて作ってしまった水神としては少しばかり不本意な子だが、産まれてしまえばやはり目に入れても痛くない程可愛かった。
性格は聡く大人しい密とは一転、好奇心旺盛で元気一杯に活発だ。
文字通り、家族が賑やかになったのにはこの子が要因ではある。

「全く。褐(かつ)は甘えん坊だな。密が其れくらいの頃は、もう抱っこなどと言わなかったぞ」
「……お父様のけち」
「誰がけちだ!誰が!……仕様がない奴め。ほら、来い」

腰を屈めて空いている右腕を広げると、無遠慮に飛び込んできた。
水神は二人を物ともせず両手で抱え上げ、憮然として溜息を吐きながら歩き出した。
寝屋に着き、褐を降ろすと先程まで抱っこを強請っていたのは何だったのかと言う勢いで離れ、お手玉で遊び始めた。
水神としては市を慰めるという名目で事に雪崩れ込もうとしていたので、正直褐には他の部屋で遊んでいて欲しかったが、ぐっと堪えた。

(こいつもいつもは密に遊んでいてもらっていたからな。寂しいのだろう)

今日は家族水入らずで過ごすか、と未だ腕の中にいる市を降ろそうと見遣れば、泣き疲れ眠ってしまっていた。
そっと、寝台に下ろすと衣を一枚脱がし、掛けてやった。

(今日は子守をしている気分だ)

片方は間違いなく子供なのでそう言っても正しい。
市の横に寝転がり、涙の跡を拭うと、くすりと水神は笑った。
あの頃は想像していなかっただろう、嫌がらせの為に孕ませた子を思って市がこんなにも泣くなどと。
そして、そんな市を見て慈しむなんて感情を自分が持つなどと。

(もし知ったら、あの頃の俺は発狂しそうだな)

其れほどまでに己は変わってしまったのかと、感慨に浸った。
十年など長い生の中で一寸だと思っていたが、こうして家族を築き上げるのにはそれなりに時間を要した気もする。
増してや、市と夫婦になるまでの一年間は濃く、昨日のことのように思い出せる。

「あ!お父様とお母様、昼寝するの?僕も、僕も!」

褐はそう言うや否や、足元から寝台に上がり、四つん這いになって水神と市の間をぐいぐい割り込んできた。
ぴったり二人の間に潜り込むと、満足気な表情で目を閉じた。
はあ、と諦めの息を吐いて水神は褐の頭を撫でる。

(まあ、こんな日もたまにはいいか)



「只今戻りました!……あれ?父上?母上、褐……?」

空が橙に染められ始めた頃、出先から帰った密はしん、とした玄関で首を捻った。
母か、弟が出迎えてくれるだろうと思っていたので少しばかり寂しく思いながら、家に上がる。
夫婦の寝屋の前で声を掛けながら障子を開けると、目を丸めた後、笑みを零した。

「皆、ずるいです。私も入れてください」

そう言って密は、寝台に眠る親子三人の川の字に自分を一本足した。



最初に目を覚ました市が、家族皆で眠っていることに感極まり、今度は嬉し泣きをして水神を困らすのはそれから数刻経ってからのことだった。




END.
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