「では、行ってくれるな?市(いち)」 そう言った老人も、老人の後ろに佇んでいる村人たちも市に否と言わせる気はないらしく、返事を待たずそそくさと去っていった。 残された市は、月の光で更に青白くなった自分自身を抱き寄せた。 「……お父、さん」 生気を失った瞳で、何もない暗がりを見つめていた。 市は、名もない山奥の村で生まれた。もともと体が弱かった市の母は、出産と同時に息をひきとった。 以来、父が市を育ててくれたが、その生活は貧しいものだった。 六つにもなれば、男児はみな、畑仕事を手伝うのというのに、市には生まれつき左足に障害があり、片足を引きずり歩くのがやっとで、母に似たのか体も弱く、幼少の頃は寝床に臥すことが多かった。 子どもながらに市は、心苦しく何度父に謝ったことかわからない。 「ぉ父さ、ん」 「どうした?ちゃんと寝てろ」 「う、ん、お父さん……ごめんね、ごめんなさい」 「何だ?市は謝るようなことはしてないだろう?」 「ううん、だって……やくたたずって、ぐす、ぼく、やくたたずっで……ひくっ」 しかしその度、父は気にするな、と不器用に頭を撫でた。その温もりを感じては自分は生まれてきて良かったのだと、安堵した。 村の子どもが立派な働き手になっていく中、市は十を越えても青白く、貧相な体つきで、笠を編んだり農具の手入れをするなど、女がやる仕事しかできなかった。 村人からは“穀潰し”“役立たず”と罵られて冷たい目に晒され、友と呼べる者もおらず、この狭い村社会で孤立していた。 それでも市は、命を懸けて産んでくれた母と、男手ひとつで育ててくれた父に感謝していた。 けれど、市が十四を数えた年、例年よりも雨量が多く度々水源にしていた川が氾濫し村の作物は部分的に水害を受けていた。 壊滅的ではなかったにしろ、元々父子二人で食べていくのがやっとだったため、ついに父は山を下り都へと出稼ぎに行くこととなった。 「三月もすれば戻ってくる」 父は他にも何か言いたそうにしながらも、市の頭をひと撫でし、家から出て行った。 三月が経ち、半年が過ぎ、ついに一年となったが、父は帰ってこなかった。 代わりに今まで市を蔑ろにしてきた村長や、村人が市の元を訪れ口々にこう言った。 「市よ、お主を水神様に捧げることとなった」 「名誉なことだ、神に仕えるというのは」 「お前の父も喜ぶぞ」 初めは何を言っているのかよくわからなかったが、最後の言葉にがんっと頭を殴られたような衝撃があった。 ――神に仕える?お父さんが喜ぶ? そうしてあまり頭の良くない市でもわかった、父はもとより帰ってくる気などなかった。 仕えるなんて名ばかりで、要は厄介払いだ。父は市を売ったのだ生贄として。 あくる日、市は村の男達数人と神輿とは言えないお粗末な輿に揺られ市が暮らしていた山村のもっと山奥までやってきた。 山の木々がどんどん濃く鬱蒼となってきた頃、突如輿から落とされた。 突然の出来事に華奢な体は弾みをつけて転がった。 「うっ……げほっ」 市を放り出した男達はお飾り程度の供物を市に押し付けた。 「いいか、逃げるなんて気を起こすなよ」 一人の男が鋭い目つきで釘を刺すと、隣にいた男が笑う。 「無理だ、無理だ。この山の水神様は気性が荒いと聞く。逃げようとしたら嬲り殺されるのがオチだ」 それもそうだな、と男達は下卑た声で笑い、目もくれず村へ戻っていった。 市は暫く呆然と座り込んでいたが、一息つくと立ち上がった。 市の足を思ってか、逃げ出さないようにか、考えずとも後者だろうが存外に近場まで運んでくれていたようで、すぐに目的の泉へと着いた。 (お父さん……元気に暮らしてるかな?) 泉の前で正座し、静かにその時を待っていた。 山のざわめき以外音がなく、泉は整然としていた。 ここにきてようやく市の思考は現実に追いついた。 (親孝行もできてないのに……でも、僕がいなくなることがもしかしたら一番の親孝行なのかも) 不安に苛まれる中、父の心配とどこかほっとした胸中だった。すると次の瞬間、 ―――ザバアァッ! 「え……っ!?」 それまで波紋ひとつなかった泉に水柱が立ち、中から何やら大きな者が姿を現した。 >> |