「…お父さん」
「何です」
「今日はいい夫婦の日なんだって」
知ってた?そう、さっきまで教科書を睨んでいたはずの丸く大きな瞳が、いつの間にかこちらをじっと凝らす。私は読んでいた本を静かに閉じ、詳細を聞くべくおもむろに口を開いた。
「そうなんですか?知らなかった」
「そうなんですぅ。語呂合わせでさあ、ほら」
「…あぁ、成る程」
今日の日にちを思い浮かべて、納得。いい夫婦…なんか良いですね、響きが…、とても、と私が頬を緩めれば、我が愛娘もでしょう?と同じく顔を綻ばせる。その柔らかい表情は何だか嬉しそうだ。
「それでね、今晩はわたし帰らないから」
「…はい?」
「今晩はわたし、マタドーラおじちゃんの家に泊まるから」
私の娘は一体何を考えているのだろう。一度目こそは疑問符だけで済んだものの、さすがに二度目で細かく告げられた内容に「はあっ!?」と私は声を裏返した。眉間に皴が寄るのは仕方ないはず。
「ななな何言ってるんですか!お父さんは許しませんよっ」
「え〜、どうしてー?」
「どうしてってあなた…!」
エルマタドーラといえば、まだ独り身で同棲中の人も居ないはず。そんな男の所に大事な大事な娘を一晩泊めるだなんて…
「どう考えても危ないでしょう!」
私がかっかかっかと声を荒げると、当の本人はどうしてだか笑い始め天を仰いだ。これには私も呆然としてしまう。
「ごめん、お父さん。今のは冗談だよ。本当はドラえもんおじちゃんの所へ行くの。そこならドラミさんもいるから安心でしょ?明日はほら、祝日だから丁度いいし。という訳でお父さん、どこでもドア貸して下さい」
ぺこりと一礼した娘に私は何だか拍子抜けだ。それでもやっぱり心配は尽きずドアを出すことを渋っていると、「出してくれないなら本当にマタドーラおじちゃんのトコへ行くからね」等とついには脅してきたので仕方なく、仕方なく溜め息を付きつつドアへと手を伸ばした。
「まあまあ、私から折角の気遣いなんだからちゃんと受け取ってよ。お母さんと二人きりになるの、久し振りでしょ?」
あぁ、ついこの間ランドセルから卒業したばかりだと思っていたのに…ここ数ヶ月でいきなり成長した気がする。まさか冗談や恐喝を言うだけでなく気配りまで出来るようになっていたとは…。一応褒め言葉ですよ、えぇ。
「じゃあ行ってきます!」
「あっ!待ちなさい、そういえば課題は大丈夫なんですか?」
「期限来週までだもん。らっくしょう」
ピースに満面の笑顔という組み合わせを残して、愛しい娘はドアを開けひらひらと手を振った。そのドアが閉められたのと同時に、娘と丁度入れ代わる形で今度は妻があれ?と私の隣に並ぶ。
「あの子、何処行ったの?」
「…今日はドラえもんの家に泊まるそうです。ドラミさんやセワシ君もいますし、大丈夫でしょう」
「泊まり!?わー、…なんか一気に親離れされちゃった気分」
少し驚いた様子の妻もやはり、私と同じように思ったらしい。苦笑を混じえながら「なんだか、大きくなるの早いねー。…背なんてもうすぐ追いつかれちゃうもん」と呟いた。
「えぇ、私もさっき同じようなことを思った所です」
「…、あーもう、寂しいなー」
「…あの、」
「んー?」
「…寂しいのなら、今日は…」
久し振りに二人で出かけませんか?1日中、ゆっくり、じっくり…、二人きりで。
デートの誘いなんて何時ぶりだろうか。久々なもので少しばかり緊張してしまう。彼女も少し驚いたような顔をしたが、直ぐにやんわりと笑んで私の手を強く握り締めた。
(えっ、二人とも居ないんですかっ?)
(う、うん。兄妹そろって温泉旅行いっちゃったんだけど…どうする?)
(…や、そこまで大事な用事じゃなかったので大丈夫です!じゃ!)
((わーわーどうしよう全然大丈夫じゃない!本当にマタドーラおじちゃんの所行くしか無いかな…ばれたらお父さん怒るよね、怒るよね!))
20121122