※糖度ゼロ
「オトナっていいな〜」
「え〜、どうして?」
「だってスキなことできるし、じゆーだし。キレイなおねいさんとたっくさんあそべるし」
オラも早くオトナになりたいゾ!会う度にそう意気込むしんのすけくんの言葉が、ひっそりと私の心に影を差していた事を、きっと彼は知る由もないのだろう。小さく震え出した携帯を一瞬だけ一瞥してぎゅっとキツく握りしめた。しんのすけくんが不思議そうに首を傾げて、「出なくていいの?」と言うのでいいのいいのと笑顔で頷く。どうせストーカーからなんだから。
「…私はずっと子供が良かったけどなぁ」
「お?そうなの?」
「うん」
だって汚いじゃない、大人って。まだ純粋で無垢な君には教えてあげないけれど。大人は嘘つきで汚くてどうしようもない生き物なんだよと、中学生くらいになってから周りのろくでもない大人たちを見てそう思った。そんな大人にだけはなりたくなくて、私は絶対に純粋なままの綺麗な大人になるんだって。ずっとそう思っていたけれど。学業を卒業して社会人になってからはそうもいかなくなった。
嘘を吐くのはズルくて卑怯な事だ。だから仕事で犯した些細なミスは正直に上司に告白したしその分こってり怒られた。ごめんなさいと誠心誠意で謝った。黙っていればバレないようなミスもきちんと報告した。それはもう馬鹿正直に。そしたらミスが多いダメダメな社員っていうレッテルを貼られるようになって、私のじゃないミスも押し付けられるようになって。否定したら嘘つき呼ばわりされて言い訳するなとか余計に怒られる。どうして?私は今まで、本当の事しか言ってないじゃない。なのにどうして私が嘘つきと言われなくちゃいけないの?嘘をついているのは別の社員じゃない。その瞬間から私の真っ白だった心に黒い物が点々と落ちて、じんわりと滲んで広がっていく気がした。
男の人とデートするときは、相手に合わせて聞き上手、気の利く振る舞いをするのがモテる女の子なんだと思ってた。だから好きになった人にはうんと尽くしたし、必死になっていい女を演じた。そんな大好きだった人から身体の関係を持ちかけられて。でも付き合ってるわけじゃないから渋ったら怒られた。もう子供じゃないんだから、この状況になってやる事は一つって分かるでしょ?って。何それ。一気に目が覚めた気がした。その反動で色んな男の人とデートして八方美人振舞いながら優しくしてたら、今度は粘着質なストーカーに付き纏われてしまう始末。なんで、どうして、こんな筈じゃ無かった。私はもっと、少女漫画みたいな甘くて切ない恋愛をしてみたかったのに、
それが現実。もう夢を見ていられる年頃じゃない事にも気が付いてしまって胸が鈍く痛んだ。段々と神経が鈍くなっていく。段々と私の心も、汚い大人の色に染まりつつある。そんな気がしていた。最近簡単な事では泣かなくなったし、些細な事で暴言を吐くようになってしまった自分が嫌だった。あんなに素直で正直でいたいと思っていたのに、いつの間にか仕事でのミスも男の人からの質問にも平気で嘘をつけるようになった。罪悪感で悩む事も減った。私も着々と汚くて狡い大人になりつつあるんだ…。私はね、その事実がどうしようもなく怖い。怖いんだよ。
「…大人になったって、いい事は一つもないのにね」
ごめんね、しんのすけくん。未来に期待をしている君には酷かもしれないけれど。私はもう21世紀にうんざりなんだ。戻れるなら子供の頃に戻りたいと思うし、綺麗な大人という幻想は文字通り幻となって消えてしまったから。だから私決めたの。
*
「っ、おねいさん…」
なんで。不安の色を混ぜたしんのすけくんの声がすっと耳に入って抜けていく。仲の良かったお姉さんが今、敵として目の前にいる。しんのすけくんは一体どういう気持ちなんだろうと、考えてみたけど全然想像出来なくて自嘲してしまった。私がもう少し若くて無垢な気持ちを残していたら分かったかもしれないのに。ホント、嫌な大人になっちゃったなぁ。
「お姉さんはね、大人でいるのにもう疲れちゃったの。ごめんね、しんのすけくんの未来を奪うような事して。でもこんな理不尽な世界に未来なんてないでしょ。汚くて醜いって、そう思うでしょ?そんな大人なんだよ、お姉さんは」
綺麗な大人になれないのなら子供に戻ればいいんだ。リーダーがそう教えてくれた。その通りだと思った。無垢で純粋だったあの頃に、楽しかったあの頃に戻れれば、きっと…、
「だから絶対にここは通さない」
君に私たちの野望は潰させないよ。しんのすけくんの前に立ちはだかって両手を広げた。しんのすけくんがゴクリと唾を飲むと同時に風が強く吹いて、私の制帽が吹き飛ばされる。
「っ、そんな事、オラだって絶対絶対ぜーったい、させないゾっ!」
「そうだね、しんのすけくんにとっても負けられないもんね」
「それにっ、オラおねいさんに言いたいことがある!」
「なぁに?」
「…おねいさんは、汚くも醜くもない。いつもオラにお菓子とお茶々くれる、一緒に遊んでくれる優しくて美人なおねいさんだもん。ろくでもない大人なんかじゃないゾっ」
私は君の敵なのに、しんのすけくんは真っ直ぐとぶれない瞳で私を見つめながらそんな事を言うから驚いた。目を丸めて一瞬ポカンとした後、思わず小さく笑ってしまう。そんな事を言ってくれるしんのすけくんの方が優しいっていうのに。本当、子供は素直で純粋だ。ごめんね、しんのすけくん。こんな醜態を見せたりして。私が君の中ボスで。
「じゃあ本気で倒しに来てね、私の事。いくら君でも容赦はしないよ」
しんのすけくんが眉を釣り上げて私を睨む。望むところだゾ。そう返したしんのすけくんは、いつものおちゃらけた笑顔とは全然違くて、声も凛としていて。彼になら本当に未来を奪い返されてしまうだろうと、私はなんとなくそう直感した。
20190308