初めてナマエを見た時、まるで時間が止まった様な錯覚に陥った。遠い昔の記憶が、一気に脳内へと流れ込んで来る様な感覚。俺は元から前世の記憶とやらを所持していたが。ナマエは丸っと忘れて、全く新しい人生を歩んでいるらしかった。フルネームで名乗った所で何の反応も見せない。わざとトマトジュースなんて血に似ていてあんまり需要の無さそうなオーダーを突き通してみたりもしたが、変わった客という印象のみで終わった。梅を連れて来て、二人して凝視してみた事もあった。流石に二人分の視線は異様だったのか。たじたじになった様子で笑うその顔は、あの時と全く変わってはいないというのに。


「ナマエ、全然思い出さないわね」


あたし達の事。ナマエが出て行った後の部屋で、何処か寂しそうな声色をしながら梅が言う。ちゅうっ、と吸い上げられたクリームソーダが余程美味かったのか。梅はニコニコとしながら、スプーンでアイスクリームを掬って口へ運んだ。


「…そうだなぁ」


ナマエは元々、お茶屋の娘だった。甘い茶菓子と熱々のお茶を、いつもおぼんに乗せて走り回っていた。いらっしゃいませ!と、元気よく笑顔で客に挨拶をする。あの笑顔が忘れられない。まぁあの頃に比べると、今は大分覇気の無いいらっしゃいませになってはいるが。何だかそこも含めて微笑ましくなった。

ナマエは誰に対しても優しく温かく接する善人だった。あんな汚くて醜くて、見窄らしい俺相手でも良くしてくれるくらいには、優しくて可愛い良き娘だった。わたしが作った物なので、お代は大丈夫ですよと言いながら俺や梅に茶菓子を振る舞う。その愛らしい笑顔が好きだった。梅もよく懐いていて、お姉ちゃんが増えたみたいで嬉しい!と良く言っていたなぁ。取り立ての仕事を始めて僅かながら収入が入る様になってからは、堂々とナマエの茶屋へと足を運ぶ事が増えた。今までの分だと金を渡しても、ナマエは中々受け取ろうとしないので代わりに簪を買って手渡してみる。ナマエに似合いそうなのを一生懸命選んで。あの時は柄にも無く緊張したっけなぁ。わたし、殿方から贈り物なんて初めてです!と頬を染めて照れた様に笑っていたナマエ。俺と梅が鬼になったと知った時、泣きながらわたしも鬼になりますと後を追い掛けてきたナマエ。最後の最後まで、死の間際すらずっと一緒で。「地獄の果てまで着いて行きますよ。だって、妓夫太郎さんと梅ちゃんが大好きなんですもん」と、涙ながらに笑って見せたナマエ。一日たりとも、俺がナマエを忘れた事は無かった。いつかこの現世でもう一度巡り会えたなら。そう思いながら毎日を生きてきた。そして冒頭へ戻る。


久し振りに会ったナマエは、昔に比べて程よくヤル気の無いカラオケ店員へと転生していた。ヤル気は無いが、会計後にありがとうございましたと笑った顔だけはあの時と何も変わっていなくて、無意識にも胸の奥がキュっと締まる。レベルの低い客に絡まれるのも相変わらずだなぁ、と見ていて思う。お茶屋をしていた時は看板娘だったから、あの時はあの時で侍によく絡まれたり難癖をつけられたりしていたな。だからつい手を出して殴ったり鋭い眼光で睨み付けてしまった訳だが。その時の、少し安心した様な顔でお礼を言うのもあの時を彷彿とさせて苦しくてなった。だが極め付けはやっぱり最後に交わしたやり取りだろうか。


「次はいつ来ますか」


なんて、俺の来る日を聞いてはウキウキと、目をキラキラさせて待ち遠しくしていたのはナマエの方だったというのに。今世では見事に逆転してしまったので笑える。


「アンタ、明日は出勤なのか」

「え?えぇと、明日は早番ですかね」

「…なら、明日また来るからなぁ」


そう告げれば、ナマエはギクリとした顔で僅かに頬を赤らめた。何処かぎこちなく「ありがとうございました!」と言って、手に持っていたカゴを一つ勢いよく奪い取られる。そういえば、昔にも一度だけあったっけなぁ。次はいつ会えますか、といういつもの問いかけに、俺は「明日また来るからなぁ」と答えた。明日になったら、自分の想いを伝えるつもりでいた。フワフワ嬉しそうに微笑みながら。「またのご来店をお待ちしておりますね」そう言い掛けたナマエに顔を近付けて、唇を塞ぐ。顔を真っ赤にしておぼんを落としてしまったナマエに、俺はまた明日なと小さく笑った。ナマエはいつもそうだ。「またのご来店をお待ちしておりますね」と、見ていて蕩けてしまいそうな程柔らかい笑顔で言う。あの時の情景と表情が見事に重なって、気づけば唇を触れさせていた。今度のナマエは、おぼんを落とす気配が無いようので良かったと内心安堵する。ここでおぼんを落としたら間違いなく大惨事だ。


「っ、な、」


顔を真っ赤にして俺を見やるナマエの頭を二、三度撫でてから離れる。そのまま逃げる様にして階段を降りて、フロントへとカゴを手渡した。


「(やった。これはやらかした)」


ついキスしちまったなぁ、と、時間差で赤くなる頬をガン無視して会計を済ませる。ナマエも突然の事に驚いて固まっているのか、幸い階段を降りて来る気配が無かったので、そのまま速やかに店を出た。流石に嫌われただろうか。今になって訪れるのは大量の自己嫌悪と後悔の嵐。はああ、だなんてため息を吐いて、俺はもう一度だけ店の方を振り返った。



×
- ナノ -