勢いよく押し倒された身体が柔らかい布団に埋もれる。それまで上司に当たる彼を男性として見た事が無かっただけに、彼の力の強さに目を瞠ったし、その強引さにドキリともした。


「ゆ、ゆめひこ、さん…?」


辿々しく名前を呼んで見る。眼鏡の奥のまぁるい瞳が何処となくギラギラしている様に見えて何だかソワソワとした。「…サキが、」暫しの沈黙の末紡がれたのは、彼の愛娘の名前。


「サキが、弟か妹を欲しがっているんだ…。申し訳ないが、君に協力を要請したい」

「へえっ!?」


素っ頓狂な声を上げて赤面する。ワタワタと狼狽する私に対し、夢彦さんは凄く冷静な素振りをしていた。


「そんなっ、ちょ、えっ、困ります!」

「すまないね。君に拒否権は無い」


何故だか身体がカチカチに固まってしまって一ミリも動けない私の腕を、夢彦さんが片手で纏め上げ頭上で固定する。ゆっくりと近付いて来る夢彦さんの顔に心拍数が上がって息を呑んだ。いや、駄目…!そう思うのに、彼に対してそこまでの嫌悪感が無いのはどうしてなのか。ギュッと目を閉じる。


「観念しなさい、ナマエ」


耳元で低く囁かれた声に心臓が反応してゾクリと全身に震えが走った。ぱちっ、そこで閉じたはずの瞳が開いて、私は寝ぼけ眼のまま徐に瞬きをする。「…あれ」ポロリと零れ落ちた声は掠れていて、渇いてヒリヒリする喉が寝起きだという事を主張していた。


「…夢か、」


そうぼやくと余計にさっきの生々しい夢がクリアに脳裏へと映し出される気がした。わ、我ながら何て卑猥で如何わしい夢を…っ、


「うっ、恥ずかしい!!」


もう夢彦さんの顔見れない!!ううっ!私は夢彦さん相手になんて夢を見てるんだ。はああ、困った、私は夢に見た相手を好きになってしまうタイプ…はあぁ、起きよ。一頻り布団の上でジタバタ暴れた末、一瞬冷静になってのそりと起き上がる。起きて朝ごはん作らないと。



「…はあああ、」


盛大に溜息を零しては、その度に今朝の夢を思い出して憂鬱になってまた溜息を吐く。その繰り返し。あまりにも重々しいその様子にサキちゃんが反応した。もぐもぐ朝食を咀嚼していたサキちゃんがついに、いつものジト目で訊いてくる。


「どうしたの?ナマエさん、さっきから溜息ばーっかり」

「…何でもないよ。ちょっとね、うん。…ちょっとね」

「なにそれ。パパがね、溜息零すと幸せが逃げちゃうって、…言ってた」

「う、そうだね…気を付けます」


とても爽やかな朝だった。上手く出来上がったポーチドエッグ。トロトロと溢れ出る半熟の黄身に、サキちゃんは少し苦戦している様に見えた。料理があまり得意でない夢彦さん。サキちゃんを心配して私をご飯係に任命した夢彦さん。正直、嬉しかった。尊敬している上司に頼られる事が。いつもは無に近しい表情ばかりを浮かべている上司なのに、私の作ったご飯を食べて、美味いなと僅かながら顔を綻ばせてくれた事が。ただただ純粋に嬉しかった。


「おいしい?サキちゃん」


そう問い掛けてみても訪れるのは沈黙。だけれど、その長い沈黙の後にサキちゃんはコクリと小さく頷いて朝食のエッグベネディクトへと視線を落とした。


「…うん、おいしいよ」

「…そっか、なら良かった」


ここまで来るのに随分と時間が掛かった気がする。最初は無視に近い状態から始まって中々心を開いてくれなかったサキちゃん。何この人、…もしかして、新しいママ?そう、父親へと不安げに訊ねるサキちゃんの姿が瞼の裏から離れない。いいや、と、短く返して首を横へ振った彼の姿も。私は忘れる事が出来ずにいた。…ん、忘れる事が出来ずにいた?いやいや、何でそこで引っかかってそんなしんみり儚くなってるの。それじゃあまるで私が、夢彦さんの事好き、みたいじゃないか…。


「(今朝見た夢のせい、今朝見た夢のせい)」


だから私は必要以上に夢彦さんの事を意識しちゃってるんだ。そうに違いない。なんて自己暗示を掛けてみるものの、「おはよう」と声を掛けて席についた夢彦さんの声に大袈裟な程反応してビクリと跳ね上がってしまう。


「お、おはようございます」


静かに朝食を食べ始めた夢彦さんを傍目にひっそり考え込む。子持ちで元既婚者。こんな、よく分からない頭をしていながら内面はクールで表上は超がつく程無愛想なおじさん。尊敬する上司ではあるけど、恋愛対象にはならない。そう思うのに。


「(エッグベネディクト、夢彦さんも食べにくそうにしてる)」


可愛い、とか、そんな些細な所でときめいたりして。まんまと私は彼を意識してしまってるから矛盾してる。







真夜中に響くサイレン音が私の焦りを掻き立てて、転びそうになりながらサキちゃんの部屋の扉を開けた。


「サキちゃんっ!」


この頃にもなると夢彦さんからの信頼度もグンと上がっていて、近頃ではサキちゃんの面倒を見る事もお願いされていた。サキちゃんの幼稚園のお迎えとか、夜寝る前の健康チェックとか、管理とか…。最近のサキちゃんは何だか、楽しそうで、けれどそれ故に切なそうでもあって。どうにも葛藤している様に見えた。サキちゃんの心の変化にもちゃんと気付いていたのに…まさかサキちゃんがヘルメットを装着せずに寝るなんて、思いもしなかったのだ。

悪夢に魘されるサキちゃんに駆け寄り揺さぶってみる。触れた頬がやけに冷たい。「サキちゃん…!」はやる気持ちでもう一度サキちゃんの名前を呼び起こそうと試みていると、不意に後ろから声がした。


「君という者がついていながら、この状況はどういう事だ」

「ゆめひこ、さん…」

「どうやら私は、君の事を買いかぶり過ぎたらしいな」

「っ、す、すみませ!」


これは間違いなく私の責任だ。私がもっときちんとサキちゃんを気に掛けて、注意深く見ていればこんな事には…。分かっているけど。夢彦さんがすっと私の横を通り過ぎ、静かにサキちゃんを抱える。「失望したよ」そう投げ出された言葉に、私は目の前が真っ暗になって脳髄が揺れる感覚を覚えた。それと同時、遠くで聞こえてのは誰かの私を呼ぶ声。ぼうっと呆けて固まる私は、その声を聞き流したまま動けない。



「ナマエ、ナマエ」

「はっ!」

「大丈夫か、随分と魘されていたが」


ゆさゆさ。それなりに大きく揺さぶられて一気に意識が覚醒する。じっとりと汗が滲んで気持ち悪い。変な体勢で寝てしまった所為か、身体の節々が痛くて顔を顰めながらキョロキョロ辺りを見回すと、いつも通り冷静な表情で私を見やる夢彦さんが居た。


「…嫌な夢でも見たのかね」

「……はい、」


貴方に失望された夢です、とは、口が裂けても言えないけれど。私にいつも通り接してくれる夢彦さんを見てホッと安堵の息を吐く。良かった、夢だった。そういえば昨日はサキちゃんがきちんと眠りについたのを見て、そのまま私も側で眠っちゃったんだっけ。…はっ、いま何時!?勢いよく時計を見てガックリ項垂れる。短い針がとっくに天辺を過ぎていた。くぁ〜っ、寝坊で大遅刻!サキちゃんは今頃幼稚園でお昼ご飯だと思われる…。今日がお弁当の日じゃなくて良かったけれども。朝ごはんに間に合わなかった、だけでなくサキちゃんの見送りも出来なかった罪悪感からヒシヒシと胸が軋む。どうしよう、これは本当に嫌われる案件…。こわごわ、夢彦さんの方を見遣り謝罪の言葉を口にしようとして、出来なかった。


「…すまなかったな」


そう先手を打って来たのが、夢彦さんだったから。


「何がですか…?」

「君は家政婦で無ければ、ウチの家族でも無い。全てを君に押し付け過ぎた、私にも非がある」

「そんな事、無いです…お金を頂いて働いてる限り、これは仕事です。仕事である以上これは私のミスであって、夢彦さんの所為じゃあ…」


じん、と、自分で話してて胸が震えた。ついでに涙腺と声も。一緒になって震えた。あれ、何で私、こんなに悲しくなってるんだろう。ふと脳裏に浮かんだのはサキちゃんの事。一緒に過ごす内サキちゃんは少しずつ私に心を開いてくれた。そしてそれは夢彦さんとも…。笑顔とまでは行かなかったけど。それでもふと口元が綻ぶのを見ると嬉しかった。「…だってこれはお仕事、ですもん」お金を頂いている。その事実が私達の関係にしっかりと線引きをしていた。お金は大丈夫ですよ、ボランティアだと思っていただければ。いつしかそうやんわりと伝えてみた時も、夢彦さんは頑なにいいやと首を振って私の案を拒絶していたっけ。夢彦さんがそう言うなら、それに従うけどさ…。強がってみるその裏で、本当は凄く虚しかったし苦しかった。どんなに仲良くなってもそれは仕事だからで。私が感じていた心のホワホワもこの温もりも、所詮家族ごっこに過ぎなかったのだと。実際口に出してると嫌でも実感せざるを得なくて。何だか悲しくなった。


「きっと疲れが溜まっていたんだろう。今日はもう、帰ってゆっくり休みなさい」

「…はい」

「……サキが偉く懐いていた物だから、つい頼り過ぎてしまったのかましれないな」

「え…?」

「サキだけじゃない。…私も、ナマエには凄く助けられたし、一緒に居て心地が良かった」


いつも有り難う。感謝している。そう言葉を紡ぐ夢彦さんは相変わらず無表情で、淡々としてたけど。とてととても、優しい声色をしていた。


「なっ、そんな、面と向かって褒められると照れちゃうじゃないですか!」

「最近、サキが兄弟を欲しがっていてな」

「…!?!?」


この感じは、なんだかデジャヴだ。確かこの後の台詞は、「申し訳ないが、君に協力を要請したい」ひっ、ひええ!本当に来た!


「ちょっ、あっ、本気ですか!?」

「…?まだ何も言っていないが」


早まり過ぎて、顔を真っ赤にしながらガンガン先を行く私と、キョトンとついて行けてない素振りを見せる夢彦さん。た、確かにまだ何も言ってないけど!だって、これは…!完全に前見た卑猥な夢と重なってわたわたと。冷えてるのにじっとり汗を掻く手の平で、咄嗟に頬を押さえ込んだ。どうしよう、ドキドキする…!


「… ナマエ、」

「は、はい、」

「出来ればこの先も、どうかサキの姉の様に振る舞ってやってはくれないだろうか」

「…」


あ、あね…?え、母じゃなくて、姉??


「(そ、そっちか〜!)」


早とちりだと分かるなり、突然襲いかかって来るのは虚無感と脱力感で。まるで溶けてしまったかの様にぐてっと頭を落として落ち込む。いや、まぁ、良いんですけど、別に。…姉。そりゃあ私は夢彦さんに比べたらまだまだ小娘で不甲斐ないかもしれないけれども。


「それにしても私とサキちゃんとじゃあ流石に歳が離れ過ぎかと」

「む、そ、そうか」

「そんなに私って子供っぽいですかね」


少なからず好意のある人にそんな事を言われてハートはもうフルボッコ。何処かじとっとした目付きでそう問いかけてみると、夢彦さんはタジタジになりながら答えた。


「いや、そうでは無くて…しっかり者で面倒見が良くて料理も出来る君を母親と形容するのは失礼かと思ってだな、」

「ぇ、」

「だから、あー、その、…つまり、」

「…私は、いつかサキちゃんのお母さんになれたらって、思いますけどね」


夢彦さんが僅かに目を見開いて、驚いた様な顔をする。そんな風に直視されると胸の内側が擽ったくなって堪らなくなった。


「割と気に入ってるんです。サキちゃんや夢彦さんと一緒に朝ごはん食べたり、お喋りして楽しく過ごすの」


だからいつかサキちゃんのお母さんになりたいと思うし、あなたの奥さんになりたいとも思うんですよ、夢彦さん…。なんて、そう言える勇気までは持ち合わせていなくて、そんな想いを詰め込んだ笑顔で笑い掛けてみる。ほんの少しだけ、口角を緩めてくれた夢彦さんに、それだけで胸がポカポカと温かくなった。夢彦さん、いつか、いつかでいいから、そう遠くない未来で、私の事家族として迎えてくれませんか?


「(…なんてね)」



20200526


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