思い出すだけでも腹ただしい。普通、恋人を置いて、逃げ出すだろうか。庇って代わりに食われろとまでは言わないけれども、一緒に手を引いて走るくらいはしてくれてもいいんじゃないの?と、遠ざかる彼の背中を見ながらそう思った。フツフツと湧き上がるのは怒りと、哀しみと、情けなさと。目頭がみるみる内に熱くなる。ぐにゃりと歪んだ視界を最後に、私は目の前が真っ暗になって意識が途絶えた。ああ、最悪。もし次また彼に会えたなら、よくもあの時は見捨ててくれたな!って怒鳴り散らすつもりでいたのに。


「ナマエ〜っ!あの時は本っ当に、ごめんなさいねぇ」


もう自分でも情けなく思うわァ!と、少し高めの声を張り上げる彼は私の知ってるマリアッチと違った…。一体、彼に、何があったの、…え?困惑する私に構わず、マリアッチはやけにキラキラとした瞳でじいっと私を見つめて両手を握りしめる。再会した途端からマリアッチはこの調子で、怒る気満々だった私の気迫もすっぱり削がれてしまった。


「ナマエ、どうかした?」

「どうかした、っていうか…」


お前が一番どうしたんだよ!そう言ってやろうか迷って、結局、言えなかった。言葉に詰まってつい俯いてしまう。言わなきゃ、言わなきゃって。頭では分かっているのに言葉が喉に張り付いてしまったみたく引っかかって出てこない。そうして時間を掛けて何とか出てきた言葉は、少し掠れている気すらした。


「…マリアッチ、なんか変だよ」

「そんな事ないわよ」

「いや、前々から変な奴だとは思ってたけど、もっと変な事になってるよ」

「ナマエ」


少し強めの声で名前を呼ばれてびくりとする。目を逸らしてしまいそうになるのをグッと堪えて、私もマリアッチの瞳を見つめ返した。キラキラ、キラキラ。やけに光が多いその瞳が私には眩しすぎてチカチカする。


「私はね、生まれ変わったの」

「は、はぁ…」

「もう以前の私とは違う、新たな可能性に目覚めた新マリアッチなのよ!」

「…もう、元のマリアッチには戻らないの?」

「…ナマエは、私に元のマリアッチに戻って欲しいの?」

「……うん」


たっぷり間を空けて恐る恐る、頷いた。もうマリアッチの顔を直視していられなくなって視線を落とす。あんなに変で頼りなくてヒモな男でも、私にとっては大切な彼氏だったのだ。今回の件も、ギャンギャン泣きたいだけ泣いて怒鳴り散らして、マリアッチに宥められながらも丸く収まるつもりだったのに。それが一体どうして、こんな…オネェみたいな事に…。


「ナマエ。私は、私よ?見た目は変わってしまってもマリアッチに変わりないわ」

「いや、寧ろ変わったのは内面だよね!?」

「そうかしら」


とぼけるマリアッチに溜息が出る。顰めっ面をする私の肩に、マリアッチがそっとした優しい手付きで触れて引き寄せた。じんわりとそこから広がっていく熱に肩を竦める。そういえば、マリアッチの手の平はいつも熱を孕んでいて熱かったっけ。情熱に溢れていて、燦々と明るい、まるでメキシコの太陽の日差しみたく私を包み込んでくれる。それは変わりないはずなのに…。こっそりと見上げた彼の表情を、私は知らない。そんな恋する乙女のような甘酸っぱい表情なんて、私は…。


「でもねナマエ、私がナマエを愛している事に、変わりはないわ」


そう甘いマスクにうっとりとするような声色でマリアッチは言うけれど。思わず視界が揺らいでじんと胸が震えた。


「…違うんだよ、それでも…私が好きだったのは今の貴方じゃない」

「そんな…。悲しい事言わないでちょうだい」

「ごめんなさい…」


いつかマリアッチのお嫁さんになりたい。切実に、そう思っていた。マリアッチがちゃんと就職して収入を得て、私を養えるようになったら。その時は私からプロポーズしてもいいかもなんて。普通に考えると既に色々可笑しいしツッコミたくなるけれども。職業マリアッチってバカなの!?早く就職しろ!と年中言っていた私からしたら、彼が私を養ってくれるだけで充分だと思っていた。いたけど、


「っ、養ってくれなくていい、寧ろ私が、頑張ってマリアッチの事養うからっ…だから元に戻ってよ、マリアッチ」

「…それは出来ないわ」

「どうしてっ、」

「男らしくないでしょ、そんなんじゃ」

「今のマリアッチが男らしいかと聞かれれば答えはノーだよ!?」

「それでも…、」


これが私の選んだ道なの。そう諭すマリアッチの瞳は真剣だった。彼を説得し切る事は出来ない。そう察して、私はしょぼしょぼとし出す目を必死に大きく開きながら視線を落とした。噛み締めた唇が震える。ついでに、絞り出した声もマスカラで塗りつぶした睫毛も、何処と無く震えていて余計に切なくなった。


「…もう、終わりね。私たち」

「…ええ。残念だわ」


さようなら、ナマエ。最後にそう呟いたマリアッチの顔を、私はどうしても直視する事が出来なかった。





「君は花、僕は蝶、君の甘い香りに誘われて飛んできた、きっと運命なんだね〜」


出会った当初、マリアッチが私の為に作ってくれた歌だった。まだマリアッチが無職で情けないチキン野郎だと知る前だった私は、なんてロマンチックな歌を奏でる素敵なセニョールなんだろうとときめいていた物だ。あの時はプレイヤーに入れて毎日のようにマリアッチの歌を聞いていたっけ…懐かしい。


「…はぁ」


結局、あれ以来マリアッチとは一度も会っていない。いや、別れたんだから。当たり前なんだけど…。本当は嫌だと止めて縋ってくれる、彼を期待してしまっていたのかもしれないと気付いてまた溜息を吐いた。そこまで女々しい人では無いと分かっていたはずなのに…可笑しいね。

それでもまだ私は性懲りもなく、もしかしたらなんてほぼほぼ100パーセントあり得ない可能性に賭けているのだと。長い長い坂道を登りながらしみじみ思い知った。マリアッチと喧嘩をする度に私は、一人この坂を登ってムクれていたっけ。それを見兼ねたマリアッチが追いかけてきて、私の肩を抱いて。ごめんなと謝ったのを皮切りに仲直りをして…。今度は二人で坂を下って行く。もうマリアッチは来てくれない。頭では分かっていても、止める事など出来なかった。


その日はポツポツと雨の降る雨天時で、私は傘を差しながら濡れた坂道を登っていた。女の子にしては少し大きくて重たい傘。いつもマリアッチが持ってくれていて、相合傘をしていた思い入れの強い傘。それが今はとてつもなく重たく虚しく感じて、雨が降っていたのもあり益々胸がきゅうっと締まるように痛んだ。


「…!」


不意に、前から坂を下ってくる人物に気が付いて顔を上げる。少し小さめの赤い傘を差しているのは、紛れもなくマリアッチで。つい咄嗟に俯いて視線を逸らしてしまった。そのままお互いに目を合わせる事もなく、二人はすれ違って…、


「っ、ねえっ!」


堪らず踵を返して、彼を引き留めた。赤い傘がゆっくりと振り返る。


「私たち、本当に終わりなの…?」


泣きそうな声をしているなと、我ながら思った。けれど面と向かったマリアッチの顔も、中々泣き出してしまいそうな顔をしていた。


「…やぁね、終わりを持ちかけて来たのは、ナマエの方でしょう?」


そうだけど、そうだけど…っ、


「終わりなんて、嘘だよぉ。本当は私、サヨナラなんてしたくない…!」


マリアッチと離れている間、頭の中でずっと思い浮かべていたのも全部マリアッチとの事だった。甲斐性なしの根性なしで、無職のヒモ男。挙げ句の果てにはサボテンに食べられてオネェと化すだなんて…決していいとは言えない彼氏だったけど。


「それでもマリアッチが好き、大好きなの、」


別れたくない…。弱々しい力でマリアッチのシャツを掴んだ。今まで私の我儘に散々付き合ってくれたマリアッチ。さすがに愛想をつかれてしまうかもしれない。そう思うだけでジンワリと睫毛が濡れて視界が揺れる。でも、マリアッチは私の手を両手でガッチリ掴んで私の名前を呼んだ。マリアッチの傘が落ちる。ポツポツと私の傘を叩く雨音だけが響いて、一瞬時が止まった気すらした。


「…いいの?私はもう、貴女の知ってるマリアッチじゃあないんでしょ?」

「そう思ってたけど…やっぱりマリアッチはマリアッチだよ」

「ふふ、ありがとう…。あのね、私、酒場で正式に雇って貰える事になったの」

「え…?それって、」


本当は迎えに来るつもりで会いに来たのよ。ナマエ、結婚して二人で幸せになりましょう。そう甘い表情で微笑んだマリアッチが、そっと私の手を取り薬指に指輪を嵌める。ポロポロとごく自然に涙が頬を滑り落ちて、こっくり頷くとマリアッチに顎を掬われ唇を奪われた。君は花、僕は蝶、君の甘い香りに誘われて飛んできた、きっと運命なんだね。そう口ずさむマリアッチの歌声は、私の大好きなそれと何一つ変わってはいなかった。



201906017


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