この世界に迷い込んで、なにがなんだか分からず困惑している私に一番初めに手を差し伸べてくれたのが彼、クリスさんだった。行く所がないなら着いて来るといい。その言葉におどおどしながら着いて行くと彼の家らしき場所に辿り着いて、空き部屋とか衣類を私に貸してくれたしここで生活することも許してくれた。

勿論出会ったばかりの男の人と一つ屋根の下というのは抵抗があって、警戒心も丸出しだったのだと思う。クリスさんは温めたミルクの入ったマグカップを私に手渡しながら、「心の整理が出来るまで時間が掛かるだろう。無理しなくていい、ゆっくり慣れていけ」と私と少し距離を取って椅子に腰掛けた。少し砂糖が入っているらしい。ほんのりと甘くて優しい味のするミルクが、その日はやけに胸に染みた。


タダで住まわせていただく訳にはいかないと、何日か経った後すぐに仕事を始めてみた。クリスさんは必要ないと言ってくれたけど。やはり一日中家でダラダラしてるのは申し訳ない。春日部でのこと、今の事、これからの事、考える間もないくらい働き詰めになってみた結果、身体を壊してしまって彼には叱られてしまった。うぅ、本当に申し訳ない。

今思い返すと、考えたくなかったんだろうなと思う。考えれば考える程、春日部のことを忘れていくのが怖くなってこれからを不安に思ってしまうから。多分それはクリスさんにも見透かされていて、「無理しなくていいと言っただろう。俺の前では、辛いなら辛いと言え。悲しいなら泣いたっていい、笑いたい時に笑え」そう言われた時に、あぁ、私の作り笑いもバレバレだったんだなと悟って、その日私は、ここに来てから初めて声を上げて泣いた。


どうやらここには、私と同じように外から来た人間と映画の人物と、二種類の人がいるらしい。そしてアンチジャスティスの内の、まぁ簡潔に言うとクリスさんのお仲間の方たちなのだけれど、その中の一人の方がとても私好みのイケメンだった。「ナマエはとても可愛らしいね」と甘いマスクで微笑まれては堪らない。「きゃああああ、いけめんっ」とクリスさんの背中をばしばし叩くと、彼は何故だか浮かない様子。なんとなく機嫌が悪い気がしてそれとなく聞いてみるも、なんでもないの一点張りだった。

家に帰ってきた後もクリスさんの機嫌は治らない。どうしたのかとしつこいくらいに聞いたら、手首をぐいと引っ張られてそのまま唇を奪われ、目を瞠った。す、まない、とはっとしたように謝る彼は余裕が無いというのが見て取れる。びっくり、した。びっくりしたけれど、強ち私も、悪い気はしない、です。勇気を出して言ってみた言葉に自分の顔が熱くなる。その日から私たちは、恋仲になった。でも相変わらず彼のお友達のことをいけめんというと彼は必ず機嫌を悪くするので、そのギャップがまた少し可愛いなと思ったりして。大丈夫、好みのイケメンよりも一緒に過ごしてきたあなたの方が大好きだから。



「あの、クリスさん、」

「どうした」

「これは、あの、なんですか」


付き合い始めてあっという間に丸二年。いつも通りお家の台所でシチューをぐつぐつさせていたら、不意にクリスさんが私の後ろに立って、ナマエ、と名前を呼ぶので振り返ったらちゅ、と唇に柔らかい物が当たりリップ音が聞こえたのに頭の中が真っ白になる。「突然どうしたの?」どぎまぎ赤くなる私を前に、クリスさんがとても優しい手つきでふんわりと手を取って、左手薬指にきらんと光る輪っかをそっと通した。


「この世界にいる間だけ、俺の物でいて欲しい」


がちゃん。思わず落としてしまったおたまが音を立てる。呆然と固まって動けないままきっちり一分、キッチンタイマーが鳴ったことで我に返り、こくんと赤い顔のまま小さく頷くと唇を食べられて深く口付けられる。そのまま首筋、鎖骨へと唇が降りてきてぞくりと背筋が震えた。付き合って二年。けれどこういう雰囲気になるのは初めてのことで凄く緊張した。恐らく、クリスさんも気遣ってくれていたのだと思う。私はいつ消えても可笑しくない、外から来ている人間だから。とても大切にされていた。


こちらに来て早くも四年とちょっとが経っていた。実際に成長しているわけでは無いのだろうけど、それでも毎日クリスさんといたおかげか、春日部にいた頃よりも精神的に大人になれた気がする。いろいろな知識を身に付けたし、考え方なんかも変わった。あの頃の事は全然覚えていないけれど、もう未練もないくらい私は、ここに慣れてしまったから。彼さえいてくれればいいとさえ思ってしまった。大切な人が隣にいる、休日は二人で出かけて、一緒にご飯食べて、笑いあって。寧ろあの頃よりも、幸せで充実してるんじゃないかって。だから太陽が、この世界の太陽が動き出した時は正直、複雑な気持ちになってしまったの。何が起きてるのかと話を聞けば春日部に帰れるかもしれないという。クリスさんは私の目も見ずにそう言った。目の前が真っ暗になった。


「…知事を倒しちゃったら、私も帰っちゃうんだよ?」

「あぁ、分かってる」

「クリスさんはそれでも、いいの?」

「…」


クリスさんは答えてくれなかった。当たり前だ。私がいつか帰ってしまうというのは分かり切っていたことだし、知事を倒すのが彼らの映画上での仕事なのだから。


「俺は俺の役目を果たすだけだ。そしてナマエ、お前も」


クリスさんが帽子を目深に被って私の横を通り過ぎる。じんわりと目に涙が滲んで、震える唇を思い切り噛み締めた。


「待って!私も、私も行きます」

「…危ないぞ」

「だからってこのままサヨナラなんて、出来ない。最後の最後まで、一緒にいさせて」

「…すぐに支度しろ」


彼と指を絡めて、しっかりと手を繋ぎながら二人で汽車へ乗り込んだ。アンチジャスティスの皆さんが、心配そうな顔で私たちを見るので笑ってみせたつもりだけど、もしかすると苦笑いになってしまったかもしれない。


「ナマエちゃん、クリス、いいのかい?君たち二人は、」

「皆まで言うな。いつかはこうなる日がくると分かっていた、そしてそれが今日だった、それだけだ」

「…ナマエちゃんは?大丈夫?」

「えへへ、仕方ないですよ。クリスさんの言う通りですもん」


ずっと目を細めてニコニコしていたけれど、不意に涙が零れ落ちてしまって咄嗟に背を向ける。「わっ、やだ、ごめんなさい!」慌てて拭おうとすると、クリスさんに無言で抱き締められ視界が揺らぐ。彼の胸板に顔を埋めながら、落ち着こうと深く息を吸うと彼の匂いがして堪らなくなった。気を遣ってくれたらしい。皆さんこの車両には私とクリスさんだけにしてくれたけど、私たちはお互いに何も言わず、ただひたすら抱き合っていた。


「…来たか」


私たちよりも後ろの車両から、とおちゃん!と叫ぶ声が聞こえる。「ナマエはもう一つ前の車両で皆と固まっていろ、いいな?」と言われただ黙って頷くと、いい子だ、とクリスさんが笑って啄むようにちゅ、と口付けた。クリスさんは後方へ、私は前方へと歩きだしお互いに別々のドアを開ける。少しすると銃声や発砲する音が聞こえてきて肩に力が入った。


おっかない。クリスさんは大丈夫だろうかと気が気でなかった。日が沈んで、知事が撤退したらしい。みさえさん達と一緒に薪をくべていたのだけれど、突然訪れた沈黙に益々不安になり恐る恐る外へ視線をやる。見つけたクリスさんの姿にほっと安堵の息をついた。敵が数人確保されているのを見るあたり、あまり穏やかとは言えない空気だ。途中で振り落とされてしまったチコさん達は大丈夫だろうかと訊ねてみたら、クリスさんが「あいつらはそんなにヤワじゃないさ」と言ったので少しだけ安心した。怪我してないといいな、皆。



「…!なに…?」


どしんどしん、重く鳴る地響き。無意識にもクリスさんの服の裾を掴むと、今まで大人しくしていたはずの男の一人が急にクリスさんの顔面にグーでパンチしてきたのでたまらず悲鳴を上げた。


「きゃあああ!クリスさん…!」


鼻血を出して倒れた彼に慌てて駆け寄ろうとするけれど、また別の男に腕を強く引っぱられ叶わない。


「クリスさんっ」

「大人しくしてな」

「いや、放して!」

「大人しくしろっつってんだろ!」


ぱんっ、乾いた音がするのと同時に、頬がピリピリと痛んで平手打ちされたのだと分かる。自然と潤んでしまった瞳で睨むけど、相手の形相の方が怖い。


「ナマエ!抵抗するな、言う通り大人しく、」

「なにすんのよっ!」


でも怖い以上にムカついた。女の子に手上げるなんて最っ低、親にもビンタされたことないのに…!クリスさんが何か言っていた気がするけど、渾身の力を込めて思いっ切りビンタし返してやると幾分かスッキリする。でもその後すぐに、後ろ頭に何か硬い物を突きつけらる感じがして背筋がひゅっとした。あ、これ、もしかして、


「次反抗したらぶっ放すぞ!」

「はい」


両手を挙げて降参のポーズ。するとまた拳を振るう音がして瞬時にクリスさんの方を向いた。


「やめて!乱暴しないでっ」


駆け寄りたかった。でも存在を改めて認識させられるように銃をこつんと頭に当てられて下手に動けない。これ、打たれたらやっぱり死んじゃうかな。それはシャレにならない。でも彼が殴られてるのを大人しく見ているしか出来ないなんて、と目に涙を滲ませた時、凄まじい爆音がしてついに最後の一つの車両が切り離された。あちこちで聞こえる爆音に足が竦む。ついにはしゃがみ込んでしまった私の視界に、半ばやけくそに飛び込んでくるひろしさんの姿が映り状況が大きく動いたのが分かった。

グラグラとただでさえ足場が不安定な中、線路ギリギリに打たれたミサイルのせいで汽車が斜めに倒れ込み私も滑り落ちそうになる。「ひゃああ!」木材と一緒に投げ出されしまうのではと一瞬覚悟を決めたものの、さすがは私の旦那さまだ。流れるように私の腕を引っ張るとすっぽり彼の胸の中に抱きかかえられる。ほぼ垂直に近い、手を離したらアウトという状況に背筋を嫌な汗が伝った。みしみしと少しずつ地面に沈んでいくのに、皆が息を飲み見守っていた。だからそんな私たちのピンチを助けてくれた彼らは正にヒーローそのもので、カッコ良くて、また目に涙が滲んでしまったよ。


無事に体勢を整え直した列車の上で、クリスさんが私の隣に立ちしっかりと私の手を握った。そっと彼を見上げるけど、視線は合わない。お願い、もう少し、もうすこしだけ。


「クリスさん」


遠くで子ども達が戦っている。私も真っ直ぐ彼らを見据えながら愛しい人の名前を呼んだ。それでも何も言うなというように、私の手を握るのに力が込められて胸が苦しくなる。

大きく響いた爆発音に、あの巨大なロボットがメラメラ燃えている様がここからでも伺え、終わりが近いことを再認識した。線路が途切れる。みんなで転がり出るようにして外へ出て、ひたすら走って崖を登った。必死になって登り切った私たちの姿は今までにないくらいボロボロで、思わず笑ってしまう。今日着ていた服は割りとお気に入りだったんだけどな。あちこち破れちゃっててススだらけだ。


「ナマエ」


名前を呼ばれて振り向くと、ふんわり包まれるようにして抱擁される。それにそっと身を委ね大人しくしていると、不意に左手を取られはっとした。「これは、外していけ」するりと意図も簡単に抜けてしまった指輪に目を瞠って、咄嗟に彼を見る。今度はちゃんと目が合った。でも、胸の奥がズキズキして、いたい。いたくて堪らないの。


「クリス、さんっ」


目の前がぐにゃりと歪む。声も震えて今にも嗚咽が漏れ出しそうで、それに彼は僅かに眉を顰めた。キラキラと花火のように光る三文字がとても眩しい。


「あのね、あのね私、本当は、っ」


唇を唇で塞がれて。それ以上は言うな。言っちゃ、いけない。よく聞くと彼の声も震えていた気がするけど、それを確かめる余裕もないくらい深く何度も口付けをされて。私もそれに必死になって答えながら、彼の首に腕を回し離れないようにと抱き付いた。ああ、切ない。


「帰っても、元気でな」

「っ、クリスさん、こそ」

「ナマエ、…愛してる」

「私も、です、愛してます」


離れないように、確かに抱き締めあっていたのに。目の前がちかちかっと白く光って、気づけば私は映画館に立ち尽くしていて。大きく息を吸うと目尻から涙が零れた。



ーフィルムの中身は幸せな色をしていたー



(ああ、今さよらなしたばかりなのに、もう君が恋しいよ)


20160415


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