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誕生日
部屋の扉が開く音がして玄関まで迎えに行くと、なまえが疲れ切った顔を覗かせた。時計の針はすでに夜中近くを指している。

「おかえり」
「……ただいま」

今日はまたずいぶんと重症そうだ。仕事から帰ると彼女はいつも疲れた顔をしているが、ここまで不機嫌なのは初めてだ。

仕事が忙しかったのだろうか。聞いてみようかとも思うが、なまえの仕事内容を理解するのは難しい。結局何もできないんだな、と『無職居候』という自分の身分も相まってにわかに心が沈む。

「飯できてるぜ」
努めて明るく言うとなまえは、彼女の寝室の前で足を止め首だけで振り向いた。

「ありがと、助かる」
ようやっと、という感じで口角を上げるがその顔には疲労の色が色濃く浮き出ている。彼女が寝室へ姿を消すのを見送りながら、飯よりも風呂が先の方が良かったかなと肩を落とした。どうにも俺はいつも間が悪い。

再び寝室から出てきたなまえは幾分くだけた部屋着へと着替え直している。夕食の準備をしていた俺の元に寄ってきて、茶碗に手を伸ばそうとした。それを制し彼女の手から茶碗を奪うと、なまえは不思議そうに小首を傾げた。

「え、なに」
「あんたはいーから。座っとけよな」

なまえの背を軽く押し、食卓の椅子へと座らせる。彼女は半笑いで戸惑いながらも素直に腰掛けた。

そのなまえの前へと作っておいた料理を並べていく。彼女は興味深げに料理を覗き込み、待ちきれないとでも言うように身体を揺らした。

「すごーい、何これ、おいしそう」
帰って来た時よりも明るいトーンの声に内心安堵しながら、準備を終えた俺も椅子に座る。

「どうよ、自信作」
「はい!早く食べたいです!」
なまえが右手を大きく上げ、子供のような口調で云った。

その様子に合わせて俺もわざとらしくひとつ咳払いをして、
「うむ、では頂くとしよう」
しゃちほこばった調子でそう続けた。

料理を次々と口に運ぶなまえになんだか嬉しくなって俺は頬を緩める。それに気づくと彼女は少しだけ決まりが悪そうに一瞬俺から視線を外した後、すぐに眉尻を下げて笑いを浮かべた。

「どうしよう、おいしくて食べすぎちゃう」
「おう、あんたに食ってもらうために作ったんだからよ、気にせず腹いっぱい食えよ」
「……いやー、そうは言っても体型的な問題が浮上するのよ」
「いいんだよ、今日は特別──だろ?」

云うとなまえは驚いたように目を丸くしてからなんだか複雑な表情を浮かべた。

「……そっか、そうだよね」
独り言のようにぼそりと呟く。

「さ、食え食え」
俺が云うと彼女は再び料理に手をつけた。


    *


食事が終わり片付けを済ましてからなまえの様子を伺うと、彼女はソファに深くもたれ掛かっていた。肘掛けに肘をつきぎゅっと目を閉じている。近づくとその気配を感じたのか目を開きゆっくりと俺へと視線を向けた。

「ありがとう」
「おう、疲れてんな」

俺のその言葉に彼女は答えず、ゆるりとかぶりを振る。それから緩慢な動きで身体をずらしたので、俺も隣へと腰を下ろした。重みでぎしりと音が鳴る。

「何かあったのか?」
尋ねるとなまえはちらりと俺を見た後うっすらと笑みを浮かべすぐに俯いた。

彼女の性格上弱音を吐かないことは分かっている。それでも何か少しでも愚痴めいたことのひとつでも言ってしまえば、楽になるのではないかと考えたのだがそう簡単に言う気もないらしい。

「今なら先着一名様限りで俺、李曼成の膝をお貸ししますが」
おどけた調子で云い腕を広げるとなまえは怪訝そうに顔をしかめた。

「どこで覚えて来たのそんな言葉」
「昼のワイドショー」
「……あっそ」

これは外したか、と内心へこんでいるとなまえはその小ぶりな口を窄めてから、「じゃ、お願いします」と遠慮がちに小さく手を上げた。

自分で提案しておきながら本当に乗ってくれるとは思っていなかったため、いくらか動揺する。それを悟られないように少しだけ両手を上げ、彼女を受け入れた。

軽く小さな頭が俺の太ももに乗せられる。じんわりと温かさが伝わり何とも云い難い気分になった。彼女は今どんな顔をしているのだろう。

気にはなったがなまえの顔は俺の身体とは反対に向けられているため、見ることはできない。流れる髪へ手を伸ばしくしゃりと撫でてみるが、拒絶の言葉も動きもない。

今日はよほど疲れているんだろうなとうかがい知れた。体力的にではなく精神的に。普段ならこうやって俺が身体に触れることは許してくれない。

こちらとしては冗談のつもりでも彼女は決して距離を縮めようとはしないし、以前頭を撫でようとした時は思いっきり手を叩かれてしまった。冗談に見せかけた下心を見透かされているのかもしれないが。

惚れている女とひとつ屋根の下で下心を抱くなと言われる方が酷なのだが、彼女にそれを云うことはいまだできていないのだからしょうがない。

ふわりと柔らかい髪を好きなように撫でてみても、彼女は微動だにしない。もしや寝てしまったのだろうかとその顔を覗き込むと、なまえは眉根を寄せ今にも泣き出しそうな表情を浮かべていた。俺と目が合うと気まずそうに目を逸らす。

「……なあに?」
誤魔化しなのか、普段よりも間延びした声だ。

「べっつにー」
彼女の髪の生え際を掻き上げるように指で梳く。

「なまえは頑張ってんなーと思って」
「そりゃーふたり分の生活掛かってますから」

悪戯っぽく言われ俺は唸った。冗談とは分かっていても養ってもらっているのはこと実だから胸が痛い。

「……わりい」
「嘘。ごめん、そんなつもりじゃなかったの」
謝るとなまえは慌てたように言った。

「でも本当だからな。男として情けねえよ」
「やめてよ。私が悪かったってば……あんたが働けないのは、私がここに住んで家事してくれって頼んだから。李典は何も悪くない」
「でも……ごめんな」
「もういいってば」

それっきりなまえは黙り込んだ。珍しく感情的な彼女に驚くとともにそれほど弱っているのかと不安になる。

忙しかったのか?
『上司』って奴に怒られたのか?
『客』って奴に嫌なこと言われたのか?

「俺──知ってるぜ」

怒られても、嫌なことがあっても、言いたいことがあっても笑顔でそれを飲み込んでること。

理不尽なことにも頭を下げて、何度も謝罪の言葉を口にしていること。

自分を抑え込んで周りに合わせてそいつらを気遣ってること。

うまくいかないことや失敗したことで、自分を責めて必死に努力してること。

あくびを噛み殺して「眠たい」も「疲れた」も我慢してること。

あんた、真面目だから手を抜けないんだろう。なんでもかんでもひとりで背負いこんで、誰かに助けを求めたりできないんだろう。

周りの人間から頼られて甘えられてばかりのあんたは、他の誰より頼るのも甘えるのも下手なのにな。

「なあ、なまえ」
呼ぶと彼女は掠れた声で小さく返事をした。

願わくば苦しみも悲しみも乗り越えて挑み続ける彼女の頑張りがいつか報われるように。これから先もずっとなまえの傍でそれを見続けることができるように。

あんたが涙を流すことがないように。精一杯虚勢を張っても、本当は小さくてか弱い身体が二度とふるえないように俺が抱きしめるから。

今日しかないんだろ?特別な日は。あんたにとってはただの平日でも、俺にとってはなんだかとても重大な意味のある日だと思えるんだ。

「なまえ──誕生日、おめでとう」
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