×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -




  
変換されない方はこちら

はやさ×じかん=みちのり

みちのり÷はやさ=じかん

みちのり÷じかん=はやさ

みちのり×はやさ×じかん=???












はやさ×じかん=みちのり
 ぐるぐるぐるぐると、一定の速さで車輪が回るのを見ていた。
「…目が回るね」
「え?」
 何か言ったかい?と聞き返したいのか、不思議そうな顔をして視線だけをこちらにやる杉元の額には、玉の汗が浮かぶ。浮かんでは、弾けて流れていく。さっきからその光景が何度も繰り返して、私はそれを眺めていた。
 杉元が跨っているロードレーサーの細いタイヤには前方に支え、後方にローラーがあるものの、私はいつも大変不安定だと感じてしまう。それに、見ているとどうやらロードレーサーというものはとても転倒しやすい。よくやるなあ。そんな気楽な言葉を簡単に投げかけられていたのも最初の頃だけだった。毎日毎日練習をしている杉元を見ていると、なんとなくそんな声を掛けにくい。最近はその言葉を軽々しく口にできなくなっている。
「暑そうだね」
「そんなこともないよ」
 杉元は車輪をぐるぐる回しながら、今度は視線は変えない。狭い部室には熱気がむんむんしている。もちろん私は椅子に座って足を組んで見ているだけだから、この熱気は杉元が出しているものだ。
 杉元は前だけを見ていた。私は足元を見つめた。砂と埃と、申し訳程度の制汗剤のにおい。

 頑張らない彼のことを、私はよく知っている。

 どうしてそうなっちゃったかねえ。杉元の自主練が始まってから未だかつて口に出す雰囲気に出くわさないので、おそらく一生心の底に仕舞っておくだろう言葉が今日も頭の中に浮かんでは消える。挫折を知らないような彼は、いつもひょうひょうとした様子で自らの現状を、満足そうに謳いあげる。私はそんな彼を見て、思ったのだ。
 ああ、こいつは腐ってる。腐敗しているんだ。
 だから、あ腐敗していた時の彼のほうが私には見慣れた姿で、ここ一か月間の彼の方がむしろ異常なのだ。杉元の前に道はなく、杉元は後ろ向きのまま前進していたのだ。
 どうしてこうなっちゃったかねえ。
 私はため息をつきつつ、時計を見つめる。この昼休みの練習はイマイズミくんに言われて始めたものらしいけれど、なんだかんだ言って毎日かかさず続けられている。腐敗した杉元らしくないと思いつつも、私も毎日彼に付き合ってこうやってタイムキーパーをしていた。
「腐ったものって元に戻らないんじゃないお?」
 反則だと思うし、なんだか納得いかない。じゃんけんで後出しをされたような気分だ。不満げに小さい声で呟いた。杉元には聞こえていないらしい。
 杉元なんかいつでも捨てられるのに。こんなやつに律儀に付き合う必要なんてこれっぽっちもないのに。ただたまたま一年の時のクラスが一緒で、委員会が一緒で、たまに席が隣になるくらいの仲なのに。それでも私はいつでも、チャイムと同時に彼の席へと歩を進めてしまうのだ。
「20分だよ」
 時計を見て、時間を告げる。ペダルを踏む足がだんだんスピードを落としていき、車輪の回転数が減っていく。こういうのをクールダウンっていうんだそうだ。疲れているんだからすぐ降りればいいのに、杉元は必ずクールダウンをした。足に負担がかからないとか、なんとかかんとか言っていたけれどあんまりちゃんと覚えていない。
「疲れた?」
「疲れたね。でも、一週間前よりずっと楽になってるんだ」
「そっか」
「まあ僕は経験者だからね、成長も早いのさ…とはいいつつ、いつもありがとう、みょうじさん」
「…杉元、」
 杉元は顔の汗を拭う。ひ弱なくせに、負け組の癖に、まっすぐな瞳でこちらを見つめてくる。頑張ってね、と呟くことがその時の私には難しかった。多分私は、杉元のことを応援したいだけのに、どうしてこんなに涙が出そうになるんだろう。杉元の手を掴んでギュッと握った。湿り気が残っていて、予想よりずっと大きな手だった。杉元はキョトンとして私を見つめ返す。繋いだところから、全部気持ちが伝わればいいのに。上手く言葉にできないこの声が杉元に届けばいいのに。
 チャイムが遠くで鳴っている。杉元は透明な汗を流す。私はいつまで経っても、泣きそうなままだった。誤魔化すように、ぱあんと杉元の手を払う。
「どうしたんだいみょうじさん。ご乱心かい…」
 杉元が場違いなほど心配そうに私を見た。その額を汗がつうと流れていく。部室に漂う制汗剤のにおいに、今更眩暈がした。
「うるさいバカ杉元」
 そう言って、やけに丁寧に畳んである彼のタオルを、わざとぐちゃぐちゃになるよう彼の顔面に投げつけた。











みちのり÷はやさ=じかん
 この時間になると駅前は随分人で賑わう。私は随分長い赤信号を持て余しつつ、目の前に行き交う車を目で追っていた。横断歩道を渡ればようやく駅のホームへ続く階段が見えてくる。ポケットから携帯電話を取り出し、画面を明るくさせたり暗くさせたりしながら、歩行者信号が青になるのを待った。
「おい」
 男にしては少し線の細い声が聞こえたので、振り返るとそこにはイマイズミくんが立っていた。
「イマイズミくん」
 ポケッに携帯電話を仕舞い、偶然だねと声を掛ける。イマイズミくんが横に並んだ。それと同時に青信号になったので、私たちは周りの人々と同じように歩を進めた。どうやら、イマイズミくんも今帰りらしい。夕方も終わり、空がだんだんと深い群青色に変わっていく。駅前の飲み屋のどこか下品なネオンがきらきらと輝いていた。駅前はガヤガヤと賑わう。
「イマイズミくんも今帰りなんだ」
「そうだ」
「イマイズミくんって帰りどっち方面なの?」
 人の波に流されながら歩く。聞いたところ、イマイズミくんはどうやら私と同じ方面の電車らしい。仏頂面の彼を見ながら、なるべく気にしないように心がけて、当たり障りのない世間話を投げかけた。途中、駅前の居酒屋のユニフォームを来た、明るい髪色のお姉さんが、「一杯いかがですかあ」と間延びした声で言いながら、チラシを配っている。誰彼かまわず渡しているらしく、どう見ても学生の私たちの前にも差し出してきた。私は差し出されたそれを一瞥してから、リアクションもしないまま前をすうと通り過ぎた。イマイズミくんも私と同じようにして通り過ぎようとする。お姉さんも慣れているのだろう、「ありがとうございましたあ」と言いながら、すっと伸ばした手を引いた。そのまま次の通行人に差し出すようだった。
「最近は暗くなるのが遅くなったね」
「…もう夏だしな」
 改札へと続く階段へと差し掛かったので、階段を上ろうと、温い空気を切り裂くように太ももをあげる。エスカレーターがあればいいのにといつも思うけれど、なぜかこの駅にはエスカレーターがないのだった。かと言ってエレベーターに乗るまではないのだけれど。横に並んで同じように階段を上るイマイズミくんは随分涼しい顔をしていた。
 人を掻い潜りながら進むと、改札が見えてきた。私は、慣れた手つきで鞄の外ポケットに着いているICカードを取り出して、改札機にあてがう。ICカードを読み取ったことを表す電子音がしてすぐに改札が開いたので、私はICカードを仕舞いながら後ろをちらりと見やった。驚くことに、イマイズミくんがもたもたと改札で手間取っていた。後ろが詰まっていくのが分かる。私は歩くのをやめて、その場で立ち止まった。イマイズミくんが改札から出てくるのに併せて、再び歩き出す。
「イマイズミくんってもしかして電車通学じゃないの?」
「…普段は、あんまり使わないんだ」
「あー、自転車で来てるってこと?」
 自転車競技部だもんね。すごいねと言うと、違うと返された。
「普段は、…車で来てるから」
「え?車?…ジカヨウシャ?」
「あー…まあ、そうだ」
 イマイズミくんが私から目を逸らして眉を寄せる。仏頂面だから分かりにくいが、照れている、ということだろうか。
「…イマイズミくんって、お金持ちなんだねえ」
 当たり障りない感想を述べておいた。イマイズミくんの声を聞かずに歩き出す。後ろから着いてきたイマイズミくんがすぐに横に並んだ。ホームに出ると、ちょうど電車が行ってしまうところだった。まあ、もしかしなくても、イマイズミくんがもたもたしなかったらきっと乗れていただろう。口から洩れそうになった溜息を慌てて呑み込み、一番近くにあったベンチにすぐさま腰を下ろす。イマイズミくんがワリィと言いながら横に座った。
「行っちまったな」
「まあ、この時間、電車多いから」
「悪いな」
「イマイズミくんが謝ることじゃないよ」
 いや、だからと言って私に落ち度は100%ないのだけれど、そう返した。
 ホームにはまた段々とサラリーマンや学生の姿が増えていく。イマイズミくんも私も、黙って線路の方を見ていた。
「…なあ」
 沈黙を切り裂いて、イマイズミくんが控えめに口を開いた。
「なに?」
「ずっと聞きたかったんだが、…名前、なんて言うんだ?」
 私はイマイズミくんの質問に拍子抜けしてしまう。しかし、あまりにバツの悪い顔で言うものだから、それを見ているとつい笑い声が出てしまった。
「あはは、そうだよね。お昼とかの練習の時にしか会わないから、知らないよね」
「…あー、その、杉元と同じクラスなのは、知ってる」
「そっか。私、みょうじなまえだよ。よろしくね、イマイズミくん」
「…よろしく、みょうじ」
 大袈裟だと思ったが恥ずかしさを隠すために手を差し出すと、意外にもあっさり握り返された。すぐにやんわり離される。なんだか柄にもなくドキドキしてしまった。
「私も一個聞きたいことあったんだけど、いいかな」
「ああ。なんだ?」
「イマイズミくんの漢字って、どうやって書くの?」
「漢字か?あー、ナウの今に湧き出る泉だ。名前は…難しいから省略」
「ハハ、なあにそれ。そうなんだ、私もイマイズミくんの名前、漢字は知らなかったよ」
 イマイズミくん、もとい今泉くんはそうか、と短く相槌を打った。
「…みょうじのことよく知らねえけど、いいやつなんだろうなと思う」
 真っ直ぐ前を見つめたまま、突然話題ががらりと変わった。私は今泉くんの横顔を見る。
「どしたの急に」
「今みたいに、わざと漢字知らなかったとか言ってオレに合わせてくれたり、昼休みや休み時間毎日あいつの練習に付き合ったり」
 私は今泉くんの言わんとすることが理解できず、彼の二の句を待った。
「そうやって、誰かによくすることができるやつはすげえいいやつなんだと思う。だから、不思議なんだよ」
「…なにが」
「どうして、杉元をたまに、すげえ暗い顔で見るのか」
「…私、そんな酷い顔で杉元を見てるかな」
 今泉くんは何も言わなかった。そのせいで、しらばっくれようとする感情が空気の抜けた風船みたいに萎んでいく。しかし依然として、頭の中で言葉を整理できないままだ。
 そのまま黙って、駅のホームを見つめていた。この時間は電車の本数も増えるはずなのに、不思議なことに一向に電車がやってこない。並ぶ人が少しずつ増えていく中で、ひらりと何かがアスファルトの上に落ちた。
「あ、」
「ん?」
「チラシ」
 大きな店名のロゴに派手なカラー配色だったから、遠目だけどそれだと分かった。先程駅前で配られていた居酒屋のチラシのようだった。その上を、次々とたくさんの足が通り抜け、チラシが踏まれていく。
「はあ?」
「あー、もう、ぐちゃぐちゃになっちゃった。さっき駅前で配られてた、居酒屋のチラシだよ」
「ああ、…そういえば配ってたか」
 今泉くんが突然どうしたとでも言うように、不可解そうな顔をした。
「踏まれちゃったね」
「…そうだな」
 あのチラシを配っていたお姉さんの顔も、今はもう曖昧だった。そういう、取るに足らないものばかりで世界は構成されているのだ。私はもう子供ではないから、そういう世界の本質に気付きつつある。
「私も今泉くんもあのチラシを受け取らなかったけど。ああいうのさ…きっと杉元はもらっちゃうんだろうなって思う」
「…かもな」
「私はさあ、杉元をずっと見てきたよ。今泉くんだって部活同じなんだから知っているでしょう。あいつの、ノーマルモードを」
 杉元について、今泉くんは何も言わなかった。
「杉元はさ、頑張れないヤツなんだって思うんだよね」
 電車が来ない。さっきから何分時間が流れたのだろう。
「あんなに甲斐性なしでちゃらんぽらんなやつがさ、経験者経験者だっつってイタいっつーの、初心者に抜かれてんじゃん馬鹿じゃないの、みたいなやつだよ?」
 今泉くんの返事どころか相槌すら待たなかった。 
「なのに、突然頑張るみたいな素振りするから」
 頭を振る。
「私が練習付き合ってんのは今泉くんが言うように、私がいいやつだからでもなんでもないの」
 いつの間にか、額にじっとりと汗を掻いていた。いや、もしかしたら最初から掻いていたのだろうか。だって今は夏なのだから。
「私は多分、杉元を見張ってんのね。見張らずにはいられないの」 
 チラシはもはやここからでは確認できなかった。もしかすると線路に落ちてしまったのかもしれない。あのチラシだって、タダで刷られたものではないだろう。お金と、時間と、人の力が注がれたものだっただろう。そんなものでも、あっさりと足で踏みにじられたり、捨てられたりする。
「チラシ、踏まれてたじゃん」
「ああ」
「…私は、自分がああいう風に、なってしまうことが怖くなるときがあって」
 息を吸い込んで、思い切り吐き出した。それと同時に、電車がホームに入ってくることを知らせるメロディとアナウンスが流れる。

「杉元も、そうなっちゃったら、って」
 怖くなるときがあるんだよ、今泉くん。
 ねえ、今泉くん。イマイズミくん。あいつと同じように自転車やってるイマイズミくんは、そんなの、ないのかな。




みちのり÷じかん=はやさ

Coming soon…