長編 | ナノ
×



帰る家がない、といったとき、大輝の頬がぴくりと動いたことに、私は見て見ぬふりをすることで応えた。ここはお前の家でもねえ、とすぐに続けて言う大輝を軽くいなして、私はお風呂に向かった。

「気持ちいーわあ」

浴槽に浸かって、天井に向けて腕を伸ばしながら呟く。
十何年かそこら生きてきてようやく最近分かったことがある。平和に、着実に、凡庸に生きていくために必要なことはただ一つ。それは、鈍感であること。痛みにも、人の悪意にでも、なんにでもだ。気付かなければ、あるいは気付かぬふりができればこんなに楽なことはないのだ。何もわからない人間に、世界は案外優しかった。だから私は今日も、綺麗に人の気持ちの間を泳いで生きる。そう、波間でたゆたう魚のように。触らぬ神に祟りなし。昔の人はよくいったものだ。

「ふ〜う、いい湯でした」

風呂を上がって、フェイスタオルで頭を拭きながらリビングに戻ると、大輝がソファに座っていた。私が声をかけると立ち上がって近づいてきた。それをすり抜けて、大輝が座っていたソファに座る。ビールを飲んでいたのだろうか、机の上には点々と水滴が落ちていた。窓の付近を見ると、洗濯物が乱暴に積まれている。…大輝ってば、ガサツにもほどがあるだろう。社会人になったはずだが人間はそんな簡単に変われるものでもないのだなあと思った。と、そこまできてやっと、この家に大輝以外の気配がしないことに違和感を覚える。よく考えれば風呂に入るとき、いやもっと前、玄関に立っていた時点で気付くべきだった。

「…ていうか大輝、おばちゃんとおじちゃんは?」
「は?おまえ知らねえの?この家、今オレだけだぞ」

そこで大輝に彼の両親が単身赴任でこの家を空けていることを初めて知る。…昔は、よくこの家に、来てたんだけどなあ。今おばちゃんがなんのドラマにハマってるかまで知ってたのに。おばちゃんもおじちゃんもすごくよくしてくれて、私はこの家が大好きで、この家で暮らすことが憧れだった。もう大輝は高校生じゃないし、私は小学生でもない。それどころか大輝は大学生ではないし、私は中学生でもない。彼は社会人で、私は高校生。やっとあの頃の大輝に追いついたのに、当たり前だけど大輝の年齢は止まってはくれない。なんだか急に、年月が経ってしまったことを実感した。

「じゃあ、オレ布団敷いてくっから」

大輝がぽつりとそう言った。

「え、泊めてくれんの」
「お前…風呂まで入っといて何言ってんの。」

ごめんね、大輝。私、知ってる。大輝がそんなふうに言ってくれるだろうこと、最初っから分かってた。気付かないふりをすることで、私はいつだって弱くなれる。そして大輝は強者で、いつだって、弱者には優しい。優しくて優しくて、仕方ない。昔からそうだ。いつだって、いつだって。まるでそれが義務みたいに。
待ってろと言われ、ぽん、と頭を軽く叩かれた。大輝は私の事情について、何も首を突っ込んでこなかった。何があったのかとも、何で来たのかとも、どうしてほしいのかとも。きっと私が嘘をついていたことにも気づいているはずだ。こんな時間に女子高生一人がふらふらしてるなんて、怪しいに決まっているのに。加えて彼は、私の事情を知っている。なのにその不器用な優しい手はそれを全部懐に押しやって私に安寧をくれる。
その後ろ姿に、私は努めて明るい声を出す。鈍感でなければいけないのだ。私が上手にこの世を渡るには。だけど、気付かないこと。それが私にはできないから。


「あーでもさー!じゃあ私、今夜大輝に襲われちゃうかもじゃん!」


だからせめて、気付かないふりを。