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「槻、帰るぞ。…家に、帰るぞ」 大輝の絞り出したような言葉に、私は蚊の鳴くような声で応えることしかできなかった。 「おお、大輝くん。…本当か。ありがとう。助かるよ」 電話の向こうで父さんがひどく安堵したような声でそう言ってるのが聞こえたけど、聞こえないふりをして鼻歌を歌った。大輝は向こうを向きながら電話で話している。私の家までは、あと少しだ。繋がれた手は、がっしり握られて離してもらえそうにない。 「…ただいま」 「おお、大輝くんは?」 「外で待ってるって」 「そうか、じゃあ、お前は準備しろよ。オレ、大輝くんと話してくる」 「…うん、分かった」 家についたころにはもうあの女の人と女の子はいなくなっていた。一回帰ったらしい。私は父に諭されるまま、自分の荷物の用意をするために自室に戻った。真っ暗闇の自室は、それでもずっと私とともにあった場所だ。私の空間だ。もしかしたらこの部屋は、あの女の子が使うようになるのかもしれない。私のものは、こうやって少しずつなくなっていくのかもしれない。なるだけ、ものは持っていかないつもりだった。机とかはきっとあの子も使えるだろう。ベッドも、その周りの縫いぐるみも。とりあえず衣服や勉強道具だけ軽くまとめて、大きめのボストンバックにつっこんだ。小さいころ家族で旅行に行くためと買ったそれは、しかし修学旅行でしか使ったことがない。 「じゃあ、あとの細かいものは、また取りに来る」 「おお。できるだけ昼間に来いよ」 「…わかってるよ」 「青峰さんとこにちゃんと失礼のないようにすんだぞ」 「わかってる」 「あ、それからこれ。お金。渡しといてくれ。さっき断られちまって」 「わかった、渡しておく。ありがとう」 「バイト始めるんだろ?しばらくしたら自分で払えよ」 「…うん」 「じゃあな」 「…いって、きます」 いってらっしゃいという言葉は、結局どんなに待ってもかえってこなかった。さっきだってそうだ。ただいまといくら言ったって、おかえりとはかえってこない。この家は、確かに私の家で、この匂いは、確かに私の匂いだというのに、もう、私の家ではないみたいだ。玄関のドアをあけると、大輝がぶすっとした顔で立っていた。人を殺せそうなほど尖った色をしたその瞳は、しかし私をとらえるやいなや普通のそれへと戻る。「早くしろ」それでも声音はぶっきらぼうなままで。私は振り返り、自分の家のドアを見つめる。このドアも、いつか、素っ気ない無機質なそれに変わってしまう日が来るのだろうか。私の中で、そう変質してしまう日が。気付くと大輝は歩き始めようとしていて、慌ててその後ろに続いて、すたすたと私も歩いた。ここから大輝の家までは、そんなに距離はない。 「大輝」 「あ?」 「…ごめんね」 「謝ってんじゃねーよ」 「…ありがとう」 「礼言ってんじゃねーよ」 「はーあ!?じゃあ、どうすれば、いいわけ!」 「うるっせえな黙って歩けねえのかてめえは!」 「歩けますーう!大輝の方が声でかいっつーの!」 「くっそお前人が優しくしとけば…こんのクソガキ!」 「だからガキじゃないって言ってんでしょ!ガングロ!」 「ウゼエ!」 「大輝のほうが!」 「はあ…着いたぞ」 「わ、ほんとだ早い」 「…槻、ここに住むからには働かざる者食うべからずだ」 「はい、家主様」 「というわけで、家事。しっかりやれよ」 大輝が差し込んだ鍵が、ガチャリと回る音がする。「おかえり、槻」大輝が強調するようにはっきり呟く。乱暴なその声に、なぜかぐにゃりと視界が歪んだ。滲んだ視界の中心にある、無機質なはずの扉は、さっき出てきたときとは違ってもう冷たそうには見えなかった。 1 午后の授業 Fin |