「槻…昨日、どこにいってたんだよ」 「…父さん、なんで家にいるの」 「はあ?ここはオレの家だよ、なんでいちゃいけねえんだ」 「だって今日は、仕事のはずじゃ」
家に帰ると、驚くことに父がいた。咄嗟のことに喉から上手く声が出ない。私は彼には会わないはずだったから。予想と違った現実に戸惑っている。父さん、父さん、どうしてこんな昼間にいるの。その、人たちは、だれ?
「おかえりなさい、槻ちゃん」 「…こんにちは」
声が震えるのが自分にも分かった。綺麗な女の人と、その子供らしい可愛い女の子がソファに座っていた。にこにこ微笑む女の人が父と付き合っていることを想像するのは難くはなかった。父はめんどくさそうにため息をつく。もう私を見てはいなかった。
「あー、あれだ。父さん、今その人とお付き合いさせてもらってる」 「…そうなんだ、知らなかった」 「んで、多分結婚する」 「今日から、一緒に暮らすことになるけど、よろしくね槻ちゃん」
そうなんだ、知らなかった。自分の声なのにやけに白々しく聞こえた。 違う。私、知ってた。知ってたけど、知らないふりをしていた。父さんの帰りが遅いこと、帰ってこない日があること、それはいつも通りのことだったけど、ここ最近、一年くらい洗濯物から香る女物の香水の匂い。私、本当は全部気付いていた。
「…で、おまえどこに行ってたの昨日」 「あ、大輝の、…青峰さんとこに…」 「はあ?あんな夜分遅くにか?てゆうかお前、本当に帰ってこないつもりだったの?」 「だって、父さんがそう言ったから」 「へえ、で、これからどうするつもりだったんだよ」 「…しばらく、友達の家に泊めてもらって、それで、バイト見つけて、あとはネカフェとか…」 「お前馬鹿なの?自分の歳ちゃんと考えてみろよ。一人で生きていけるとでも、思った?」 「そんな、わけじゃ」 「お前って大人ぶってるけど、全然ガキだよなあ。そういうのって、傲慢っていうんだぜ?知ってたか槻」 「…」 「…お前は本当に昔から、青峰さんとこが好きだなあ?」 「…」 「そんなに好きなら、これから青峰さん家で暮らせばいいんじゃないか?」 「あなた!」
女の人が父さんをたしなめる。父は笑いながらそう言った。自分の喉がごくりとなったことに気付いた。その人は、父さんは、あなたのものではない。私の、私のお父さんなのに。
「…な、槻。それでいいじゃねえか」 「でも、大輝の家の都合も、あるし」 「なんなら今電話してやるよ。父さんから言えばいいだろ。おい、電話機もってこい」
父は女の人に促して、電話の子機をもってこさせ、おもむろに電話をかけ始めた。じわりと汗が噴き出す。おでこが濡れていく。たまらず、私の足は気付けばリビングから走り出していた。そのままさっき脱いだばかりのスニーカーを穿いて、玄関を飛び出す。夏の蝉は相変わらずうるさい。大輝の家を出たときとまったく同じように、何事もなかったように、鳴き続けている。
繰り返して言おう。何度でも言おう。自分を、不幸だと思ったことは、とくにない。本当だ。
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