長編 | ナノ
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槻の家の事情を、知らないといえば嘘になる。だけどそれにオレがどれだけつっこんでいいかは、正直測りかねていた。槻もオレも、出合った時のようにもう子供じゃなかった。だからオレにできるのは、何も知らない素振りをして、彼女を追いだすことだけだった。今どのような状況かもわからないのに、不用意に触れられるほどオレは器用ではない。もちろん槻から言ってこればまあどうにかしてやりたいし、してやろうとも思う。だけど、言ってこないなら話はそこまでだ。もちろんその切欠を自分から作るのは、到底無理。

「うん、ばいばい」

槻は何事もなかったかのように帰って行った。久しぶりにうるさくなった家の中がまたしいんと静まり返る。ぼりぼりと頭を掻きながらリビングに戻る。と、その前にキッチンに行った。名前が作り置きしていったのはカレーだった。このクソ熱いのに、カレーって。とちょっと呆れたが手料理なんて久しく食してなかったので、有難く享受することにする。これを食べたら出勤しなくちゃなんねえ。休日だってのに、これだから社会人はかったるい。



槻の家は、父子家庭だ。といっても、昔は当然おふくろさんがいた。だけど槻が家によく来るようになってからはもう、夫婦仲はよっぽど冷めていたのだと思う。ほぼ毎日、あいつは家でご飯を食べていた。当時の、デリカシーのかけらもないオレはよく不躾に「寂しくねえの?」とか聞いていたけれど(今考えたら相当な失言だ)、そのたびにあいつは澄ました顔で「寂しくないよ。だってお父さんもお母さんも、私のために働いてくれてる。いつもそう言ってるもん」小学生になるかならないかのガキが、そんなことを言うのだ。昔からあいつはなんか変なふうに大人びていた。ときにオレよりも。井坂夫婦がいつい離婚したかは、正確には覚えてない。そのときオレはバスケに夢中で、それ以外になりふりを構ってなれなかったからだろう。槻はオレが部活で遅く帰るようになってからも、家に来てはオフクロと飯を食べていたようだが。離婚してからもあんまり家族仲がよくないだろうことは、ほぼ毎日家でご飯を食べる槻を見ていれば手に取るようにわかった。「父さんは、忙しいから。あんまり家にいないの」なんでもないような顔で、そう呟く槻を思い出す。ああそうだ、昔はよくさつきと三人で、遊んでいたのだ。あいつがなんで家でご飯を食べるようになったかは、よく覚えていない。そう、あんまり、槻のことについては正直よく知らない、覚えていない。六歳も下の幼馴染なんて、そんなもんだろう。



「よーす、あ?火神も今日出勤?」
「ああ、昨日終わらなかった書類片付けようと思って」
「お前もクソ真面目だよなあ。キモ」
「うぜーぞ青峰。お前も真面目に仕事しろ」
「オレは給料分の仕事はしてンだよ」


偶然とは恐ろしいもので、まさかの同期入社で、デスクも隣になったのはあの、火神大我だった。高校のとき何度か対戦した、テツの新しい相棒。あ、もう過去のことだから新しくはねえのか?ああめんどくせえな。ともかく、その火神が、オレの隣だ。最初は高校の時の話でよく盛り上がったものだ。今でも、たまに飲みに行く程度には仲がいい。
オレを見て呆れたようにため息をつくと、自分の業務を再開した。生真面目な男だ。今日のことを思い出して、この生真面目な男がどんな反応をするのか期待しながら、オレは邪魔になることも気にせず火神に話しかけた。

「なー聞けよ火神ぃ。オレ、昨日女子高生と一晩共にしたんだぜ」
「…その年で援交かよ、だせーなお前」
「ちげーよ、ンなわけねえだろ!」
「あーはいはい、わかったわかった。ンで?」
「なんか話す気失せたわ。もういいっつーの」
「羨ましいなあ、人が朝から出勤してる傍らで、お前は女子高生と淫行かよ。涙が出るぜ」
「あー、あいつおっぱいねーからそれは無理だわ」
「…お前のそういうところオレたまにすげーと思う」
「はあ、なあ火神。今晩キャバクラでも行かね?」
「あ?行かねえよ馬鹿。あーあ、過去の天才バスケットボールプレイヤー青峰さんはどこに行ったんスかねえ」
「ばーか。昔のこと引き合いにしてんじゃねえよ」

火神がおどけたように笑った。天才と呼ばれていたのも、そう、昔のことだ。今はしがないサラリーマン。サラリー求めて今日も休日出勤。情けねえ話だ。
すると、電話が鳴る音がした。いっけね、マナーモードにすんの忘れてた。慌てて立ち上がりオフィスの外に出る。幸い休日ということであんまり人がいないから助かった。後ろから火神の「電話気を付けろ!」と言う言葉が聞こえた。


ポケットから携帯を取り出し、通話ボタンを押した。