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慎吾が泣くところを、あのとき多分初めて見た。私は夏の終わり、立ち尽くしたままで無慈悲に声を上げるサイレンを聞き流すしかできなかった。
蝉はまだ鳴いていなくて、私たちだけが咆哮にも似た声で泣いていた。普通なら蝉の声を聞かないうちに夏を終えるチームがほとんであることを、私はどうやら失念していたらしかった。
こんなところに立ち尽くしている場合ではないのに、足がコンクリートに根付いているみたいだ。ピクリとも動いてくれない。そんな風に私は立ち尽くすことしかできなくて、泣き崩れることしかできなかった、そんなありふれた、夏の終わり。





ふーっと両手に息を吹きかける。運の悪いことに今日は手袋を忘れてしまった。木枯らしが意地悪く吹いて私の髪を乱暴にさらっていく。長すぎるマフラーがゆらゆらとたゆたう。

「さむーっ」
「今日まじでさみィな。今年一番じゃねえ?」
「かもねー」
「あー勉強したくねえ」
「そういえばこの前の模試、どうだった?」
「悪くねー、でもよくもねえ。お前は?」
「悪すぎ、悪すぎ、悪すぎよー!ほんと、なんなんだろー!…勉強時間に学力が比例してこないんですけど。」
「あー、それわかるわ」

二人してはぁー、とため息をつく。あんなに泣いたあの夏からはや数ヶ月。季節は夏を飛び越し、ついでに秋も軽々と飛び越えてしまっていた。
慎吾はグラウンドで泣き崩れて以来、多分泣いていない。ただの一度だって。次の日から後輩への指導のためにグラウンドに出ていたのだと、後輩のマネージャーからそう聞いたとき拍子抜けしたくらいだ。涙に溺れる私はしばらく慎吾に会うことすらできなかったというのに。

空を仰ぎながら帰り道をとぼとぼと歩く。当たり前みたいに慎吾は私の手を自分のそれで覆った。

「慎吾はさー、大学に入っても野球すんの?」
「あー?…さあ、どうだろうな」
「え。しないの?」
「…そういうことは、大学受かってから考えなさい」

そういって空いてる方の手で私の頭をぽんっと叩く。乱暴なようでいて優しいその手を、私はよく知っている。眼前に伸びる二つ分の影が、じいっと私を見つめているようだ。

「そっかー…ねえ慎吾。慎吾が執着するものって何?」
「なんだそれ…例えば?」
「例えば愛とか」
「愛?ウケる」
「例えば夢とか」
「夢かー…夢なァ」
「例えば野球とか」
「…」
「例えば、」


「例えば私、とか」


「…うーん」
「…」
「わっかんねえなあ」
「…なにそれ」

間のぬけた答えに私は拍子抜けした。慎吾は優しい。優しいだけじゃなくて、多分いつも正しい。だけど、だけどだからこそ、どこかが致命的に間違っている。矛盾しているけれど、それが答えな気がした。
慎吾が何に執着するのか、そういえば私は知らない。

「執着…かァ、俺あんまり執着とかしないんだよなあ」
「そうだよね、だって慎吾は泣かないもんね」

心なしか責めるような口調になってしまう。

「泣かないし、いつもヘラヘラ笑うだけじゃん。掴み所がないってよく言われるって、昔言ってたけどさ。私はそんなことで嫌いにならないよ。」


「掴めなくても諦めないし。そんで、絶対掴まえるし。」


口をあんぐり空けたまま慎吾は私を見つめた。歩みを進めるスピードはかわらない。伸びる二つの影は先ほどより長くなった気がする。アホ面から一転、慎吾がふっと笑った。笑ったかと思えば顔を近づけてきたので慌てて目を閉じる。ちゅ、と軽いリップ音を立てて唇に柔らかいというよりはかさついた感触。どうやら彼の唇は荒れているらしい。

「ちょっと、公共の場なんですけど、」
「俺さ、あんまり執着とかわかんねーんだけど、でも、お前は隣にいてほしーって思う」
「…うん」
「…これって執着ってやつだと思うんだけど、」

いたずらな目をして笑い、お前はどう思う?と聞いてくる。その瞳の奥の淀んだブルーはまるで深海みたいだ。

「…キザー。よくそんな恥ずかしいこと言えるね」
「ははっ、なんとでも言え」

視界が滲んだのを誤魔化すために足を速める。もちろん手は繋いだままだ。男らしー、っと背中からくつくつと笑う声がする。捕まえてろよ、と続けて聞こえた声に握り返した手の温度で答えたつもりなのだけれど、果たして彼は気付いてくれただろうか。


美しく溺れる魚


企画あのひさまに提出。素敵な企画に参加させていただきありがとうございました!

(120506)