綺麗なままで、触れないままで、たとえ死んでも、残しておきたいものはありますか。 私には、ありました。 夏の終わりの教室はまるで最後の力を振り絞るように熱を持っていた。クーラーの設定温度をぎりぎりまで下げているのにちっとも涼しくならない。教壇に立つハゲ頭の国語の先生は汗を拭きながら黒板にさらさらと板書をする。周りも暑さを忘れるべく眠りについている生徒が多かった。 「あっつい…」 「言わないでくれね?もっと熱くなるんだけど」 「阿部も暑いんでしょー。それくらいいいじゃん」 「おっま、声でけーよ」 そういう阿部は隣の席で、私は今現在教科書を見せてもらっている。いつもと違いくっつけた机はなんだか自分の境界を侵されているみたいであんまり好きじゃなかったけど仕方ない。古典と間違えて現代文の教科書をもってきてしまったのだ。阿部は私にそういったかと思うとすらすらと黒板の板書をノートに写していく。要領がいいというか、ちゃっかりしている男だ。 ”新人戦どーなの” 阿部があんまりそういうものだから仕方なく机の阿部側の端っこにがりがりとシャーペンを走らせた。芯が削られていく。 ”いい感じっぽい” ”そっか 勝つといいね” ”多分大丈夫 応援いきたい” ”勉強の合間にいこーよ” ”そうだな” それだけ書くとごしごしと消しゴムで消してから、阿部はまた黒板の板書に励む。私はそれをちらと見てから青い空のほうに目を移した。あーいい天気、暑いけど。外を見てから室内を見るとなんだかとても暗い感じがするのが昔は不思議だったのになあ。その秘密も生物の授業で習った。暗順応と明順応だっただろうか。なんでもタネを明かされるとなんだか陳腐なものに思えてしまうのだから、やっぱり知らないことが多いほうがいいんだろうなあ。 そんなことをぼんやり考えながらふとまた阿部を見るとまだ板書を写していた。すばらしき勤勉学生。だけれどよくよく考えれば私も受験生だった。阿部は夏を終わらせてからまだ本当に少ししかたっていないのに切り替えが上手ですごいなあと思う。阿部が板書を終えたのかふっとペンを走らせるのを止め、少し考えた後に私の机の上にがりがりとまた書きこみはじめた。 ”お前のこと好き 多分ずっと” 阿部らしい几帳面さが目立つ字で机にそう文字が刻まれる。息をのんだ。口を開けたまま、私は阿部を見る。阿部は私を見ない。唇だけが微かに震えていた。 阿部のことは好きだ。だけど、そうじゃない。そうじゃなんだよ阿部。なんでそこまで行っちゃったんだろう、その一個前で止まってくれなかったの。そう思うと、涙が出そうになったのだからあわてて瞬きをした。夏はもうすぐ終わる。あと半年もしたら私も阿部もここにいない。受験だってある。留まれないのに、そんなこと阿部も分かってるはずなのにどうして。 どうして感情は冷凍保存できないのだろうか。 ××× 「よーし、そろそろ体育館に移動するぞー」 担任のそんな言葉で我に返る。はっと周りを見渡すとみんなぞろぞろと廊下に出始めている。私も急いで立ち上がって廊下に出ようとした。がたんっと椅子が乱暴な音を立てる。”ずっと友達でいたい””わかった” 机の上の落書きは、あの夏のまま。阿部が最初に書いたその言葉だけが綺麗になくなっている。 「おい、リボン落としてるぞ」 「へ?」 後ろを振り返ると阿部がピンクのリボンを持っていた。あわてて自分の胸を見てみると胸元のリボンは影も形もないので、阿部の持っているそれが自分のものなのだということがわかった。 「担任見てっぞ。早くいこーぜー」 阿部が私に手を差し伸べる。廊下から早くしろ―という担任の声が聞こえた。気付けば教室には私と阿部だけだ。なんでもないような顔をして、いつものようにリボンを彼の掌から乱暴に奪い取る。この手は握れない。この手には触れない。 「阿部ー、ありがと!」 「あ?おお」 だけどずっと友達でいてね。ずっと離れないでね。ごめんなさいなんて言わない、見ないふりをするよ。でも感情は冷凍保存できないから、きっといつか忘れられる、お互いに。記憶は、思い出になる。まるで星屑のような可愛い恋心を思い出して、そんなこともあったよね、っていつか笑って話せるかなあ。そう思いながら、半ば懇願しながら、前を行く阿部の背中を見つめる。掌からさらさらと、さらさらと零れていくそれには、これからもずっと見ないふり。 その手を握らないままで、その手に触れないままで、だからこそそのまま、綺麗なまま、残しておきたかったの。 twinkle memory あの日、阿部の言葉をぐちゃぐちゃに磨り潰して、ゆっくり嚥下した。あの夏の終わりと一緒に、この心も痛みも殺しちゃったよ。 (120301) 企画:3月9日さんに参加させていただきました。 ありがとうございました! |