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 今年もこの日が来たなぁと、マンションまでの道を歩きながら思った。今日は8月31日、学生なら夏休み最終日なのだろうが、生憎社会人になった私にとってはあまりにも通常と変わらない平日であり、正直昼間は仕事が忙しすぎてカレンダーをまじまじと見ている余裕もなかった。案の定残業することになり、ようやく仕事を切り上げうんざりしながら帰宅すると、玄関でパンプスを乱雑に脱ぎ捨て、一人暮らし用の1Kの、廊下と表現するには短すぎるその通路を歩きながらブラウスのボタンに手をかける。つきあたりにある部屋のドアを開けると昼間太陽によって暖められたのであろうむわっとした熱気が漏れ出てきて、うんざりした気持ちに拍車がかかった。明かりを灯して部屋の奥に進み、ベッドの枕元に置いたエアコンのリモコンのスイッチを入れる。そのころにはブラウスのボタンは外し終わっていて、気だるさを抱えながらそれを脱ぎ捨て部屋の隅に置かれた洗濯カゴに投げ入れる。上半身は少々くたびれたキャミソール姿となりスカートのホックに手をかけるころにクーラーからようやく冷気が流れ出してきた。つうと額から流れてくる汗を無視して、スカートと同時にストッキングを脱ぎ捨てるのも忘れない。常時カーテンを閉めっぱなしにしているこの部屋はいつも同じように明るく、同じくらい暗かった。時刻は夜10時30分を指す。もうすぐ、今日が終わる。
 8月31日といえば学生の頃は、終わらない宿題から目を逸らすように夏の間の思い出の走馬灯を脳裏に走らせていただろうに、今となっては走らせる走馬灯もストックがないのだから悲しいものだ。
 学生の頃はどう過ごしていたっけ。大体はアイスを食べながら実家のリビングのソファに寝転んでいる、きっとそんなダラけた毎日だったように思う。学生だからといって連日友達と遊び惚けたり、海やキャンプと楽しい予定がぎっしり詰まっていたわけでは決してなかった。ただこの季節は私にとっていつまでたっても特別で、年を経るにつれてもう取り戻せないものを少しずつ失っていくように感じてしまう。
 今でも毎年、8月31日になると思い出す。
 今日は、大好きだった人の誕生日だ。

 パンツとキャミソール姿のままベッドに腰かけしばらくぼぉっとしていたが、さすがにエアコンの風が冷たく感じるようになったので、のろのろと部屋着に着替えた。
 着替えながら、アルコールだ、と思った。体がアルコールを欲している。普段はめったに晩酌なんてしないが、無性に飲みたくなる日のために冷蔵庫にはチューハイを常備していた。めんどくささからつまみも特に用意せず冷蔵庫からチューハイを取り出し蓋を開け、そのまま喉奥へ流し込む。爽やかなグレープフルーツの酸味が鼻を抜けていく。缶から口を離すと自然とぷはぁ、と息が漏れていた。
 おっさんのような行動に今更恥ずかしさなど感じない。こんなことで自分が大人になった事実を思い知らされたくはなかったが、年々確実に図太くなっていることは恐らく悪いことではないのだろう。

「ごーぜんれーじをすぎーたらー、いーちばーんにとどけよーうー」

 歌いながら、もう一度ベッドに腰かける。いまだアルコールは血中を泳いでいるようだが、酔いが回ってきた感覚はなかった。
 青峰大輝とは中学2年生で仲良くなってから高校3年まで、中高と同じ学び舎で過ごした仲だ。お付き合いというお付き合いをしたのは高校1年の半ばから2年の終わりくらいまで。他に好きな人ができたとかじゃなく、なんとなく関係性がマンネリになり友達と大差ない関係性になってしまったから、仕方なく私から別れることを提案した。初めは離別を渋っていた彼も私の説得活動に呆れたのか、最終的に「わぁーったよ!」と折れ、晴れて私たちは学校よりも一足先に恋人を卒業することとなった。卒業したものの心の友ステージに駒を進めることはできず、なんとなく疎遠になり、なんとなく高校を卒業してから連絡を取ることはなくなった。
 あの頃私がすべきことはせめて最悪じゃない終わり方を目指すのではなく、相も変わらず馬鹿みたいに彼のことが好きなのだと伝えることだったのだろうと、今となっては思う。
 自分から別れを切り出しておいてなんだが、私はあの頃からずっと、馬鹿みたいに彼のことが好きだ。好きだけじゃ飽き足らずいつからか心の中に青峰大輝を住まわせるようになったが、イマジナリー大輝はなぜか私に都合のいい言葉を呟いてはくれないのでただ重いだけの漬物石のような存在になりつつある。
 そうすると突然、ヴヴヴヴヴ、と聞きなれたスマホのバイブ音が聞こえた。もしや仕事の同僚かと身構えながら画面を見ると、予想だにしなかった文字列に目を疑う。

 スニーカー(多分バッシュだろう)の写真アイコンに、『青峰大輝』の文字。
 私がかつて、これ以上ないくらい好きになってしまった男の名前だった。

「……はい」

 出るか出ないか5秒ほど迷って、意を決して通話ボタンを押す。間違えて切電ボタンを押しそうになりかなり慌ててしまったことで、自分がこの電話に出たがっていることを理解してしまった。

「おー、なまえ? 元気か?」
「……久しぶりじゃん、大輝」

 息を吸い込んで、あの頃の日々の延長上にあるみたいな口調にそう返した。最初の「ひ」の揺らぎで、自分の声が震えているのがわかる。こちらの返答を聞いてくつくつと笑う大輝の声を聴きながら、「嘘じゃない、本物だ」と心の底から嬉しさを隠しきれない自分の声がした。
 あまりの懐かしさに頭がくらくらする。あの頃とまったく変わらない青峰大輝が、電話口の向こうに存在した。

「どうしたの、急に」
「さっきたまたまテツから連絡来たからやり取りしてたらお前の話になって、懐かしいなと思ったんだよ」
「なんだ、そうなんだ。テツくん元気だった?」
「おう、なんか今やべぇくらい仕事が忙しいらしくてよ、じゅ……えっと、なんだあれ、呪いの言葉みたいなの吐いてた」
「呪詛ね。頭はあんまり良くならなかったみたいね」
「久しぶりに会話する同級生への態度か、それ?」
「そっちこそ、昨日の延長上みたいなテンションで電話かけてくんな」

 彼の口から出た「同級生」という言葉に傷つきながらも、大人なので意にも介さない態度を貫く。私の言葉に「あー、まぁ確かに」と納得した大輝の声を聴きながら、相変わらず素直だなと感心した。
 もう何年も声すら聞いていないのに、毎日顔を合わせていた時みたいにすらすらと言葉が出てくることに驚きながらも会話を続ける。

「お前今なにしてんの」
「……残業終わって帰ってきたところ。今はふつーにOLしてますよー」
「へぇ……想像つかねぇな」
「私もまさか自分がオフィスなレディになるとは思わなかったよ」
「つか俺、今、日本にいんだけど」
「あ、そうなの? ていうか何その言い方、今本拠地日本じゃないとか?」

 本当はバスケ雑誌やたまに会うテツくんや黄瀬などの話から彼がNBAでプレーしていることは知っていたものの、思わず知らないふりをしてしまう。だって私の執着がバレて、なにこいつ気持ち悪いと思われてしまったら悲しい。我ながら白々しいと思ったが、声に反してドキドキとうるさい心臓の音は通話では聞こえることはないようで一安心だった。

「はぁー、お前、ほんとバスケしてる俺に興味ねーよな」
「なにそれ、そんなことないし」
「お前、付き合ってるときもそんな感じだった。オレが心折れてた中学の終わりの時も高1の初めの頃も、何にも知りませんみたいな顔してたしな」
「……いきなり、懐かしい話するね。そうだった? だって私まで一緒にくよくよしてもどうもならないじゃん」
「へんなところ冷めてんだよな。ま、それに救われてたみたいなところもあったのかもしれねぇけど」
「ふうん、そうなんだ。ほんとはかわいそがられたかったの?」
「……んなわけあるか、バーカ」

 大輝が付き合っていたころの話を爆弾みたいに突然ぶちこむから、構える暇もなく被弾してしまったが息も絶え絶えに少々の沈黙で乗り切った。さっき自分で「同級生」って言ったくせに、そうして遠ざけたくせに、本当に情緒の分からない男だ。
 話題はそのまま学生の頃の話になった。
 突然の思い出話に面喰いながらも当時のことを思い出す。関係性の終わりの仄暗さはあれど、光が反射した水面のようにキラキラと輝く思い出は、これまで脳内で何度脚色して着色してしまったかもう分からない。この記憶が現実なのか私の夢想なのか境界線がはっきりしないため、私の方からは新しいネタを切り出せずにいた。

「あー、ちげぇちげぇ。ったく、話が進まねぇな。仕切りなおすぞ。俺、今日本にいんの。分かるか、なまえチャン?」
「うん、なんとなく馬鹿にしてるのは分かった。てか昔話始めたのはあんただぞ」
「そんだけ伝われば十分だ。な、会おうぜ、久しぶりに」
「はい……? い、いいけどほんとに急だね」
「よし。で、俺、もっかいお前と付き合いたい。だから今日電話した」
「……」

 その言葉を聞いて開いた口が塞がらず、電話口でフリーズしてしまった。しばらくしてから、「はぁ」ととぼけた声を上げると、「それ、返事なのか?」と笑い声交じりに返ってくる。

「えっと、……本気?」
「んな冗談言わねーだろ、こんな時間に」
「もしかして酔ってる?」
「疑り深い女だな。酔ってねぇっての。素面だ素面」
「じゃあ私が酔ってるかも。今お酒飲んでるしっ」
「なまえ」

「お前は、オレに会いたくなかったか?」

 その言葉を聞いて「なに言っちゃってんの」と笑い飛ばそうとしたが、自信満々な声の裏に隠れた彼の小さな不安に気付いてしまったので、何も言えなくなってしまう。
 私は初めて喋ったあの日からずうっと、私の方が多分ずうっと、あんたのこと好きだったよ。
 好きだったんだよ、大輝。でも私はあんたと一緒じゃなくなった日々の方がだんだん長くなって、もうあんたの知ってる私じゃないかもしれない。
 大輝が外国で頑張ってるって聞いて、もうほんとに会えない人になっちゃったんだなって覚悟して、心の中にイマジナリー大輝まで飼っちゃったよ。
 部屋の時計が12時を回る。

「あ、12時過ぎた」
「わ、まじか」
「えーっと、過ぎちゃったけど、お誕生日おめでとう、大輝」
「直接言えよ。今度会ったとき」
「……」
「ンだよ、急に黙んな」
「どうしよう」

「どうしよう、会いたすぎて、大輝に。私もうずっと、会いたかったんだよ」

 声に出してみるとガツンと固いもので頭を殴られたみたいな衝撃を感じた。鼻先がつんとして、語尾がぼやけてしまう。
 私の時間差の返答を聞いて、電話口から満足そうな笑い声が聞こえた。

「じゃ、週末な。楽しみにしてるぜ」
「あ、まって! ねぇ、なんで今日かけてきたの」

 笑い飽きたのか別れの挨拶を告げられたので、切られる前にそう尋ねると、数秒の沈黙の後、少し照れたような、拗ねたような声が返ってきた。

「誕生日だからな。いいだろ、プレゼントくらいもらっても」

 じゃーな、と言われたっきり一方的に通話が切断された。無機質な通話終了の音が鳴り響くのをしばらく呆然と聞いていた。
 残業を終えて死んだ顔で帰ってきたのはつい1時間半前なのに、遠い昔のことのようだ。今年もいつものように、死んでしまった初恋のことを思って物悲しくなるのだとさっきまで確かにそう思っていた。 
 これから何か始まるのだろうか。いざ会ってみて、大輝に「やっぱりちげぇな」って思われて、今日のドキドキなんてあっさりなくなってしまうかもしれない。そのときはテツくんに泣きついて思いっきり呪詛を吐き出してやろう。黄瀬に焼き肉食べ放題に連れてってもらおう。あの頃と同じように逃げ癖だけは抜けない。だけどやっぱり、そんなことにならなければいいと期待してしまう。
 早く大輝に会いたい。そして「おかえり」って言って、「またおっきくなった?」って聞いて、「大好き」って、今度こそ、そう伝えなくちゃ。



ラブレターフロム回遊魚
(200831 HBD青峰大輝)