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 六月に入り、土曜日の夜は湿度が高くどんよりとしていた。平日は残業が重なり夕食をコンビニ飯で済ましてしまうこともしばしばであるため、油が胃に重たいコンビニのボンゴレビアンコを喉の奥に押し込みながら、いつも「土日は手を込んだものを作ろう」と意気込むのだが、いざ土日になるとそれまでのやる気はどこへやら、結局冷蔵庫に詰めている常備菜と軽い炒め物や焼いただけの肉で満足してしまうのだ。
 結局この日も例に漏れず、ご飯とみそ汁と茄子の揚げびたしと市販の合わせ調味料で作った回鍋肉でフィニッシュすることになった。
「ご飯できたよー」
 キッチンからリビングに向けて声をかけると、リビングでだらけた格好をしながらぼおっとテレビを見ていた準太がのそりと起き上がり、机のまわりをいそいそと片付け始める。立ち上がってキッチンにランチョンマットやカトラリーを取りに来て、私の作った料理を一瞥した。
「うまそー」
 それだけ言って、またのそのそとリビングに戻っていく。今日は一日中ゴロゴロしていたが、果たして彼は空腹になっているのだろうか。かくいう私もそこまでお腹が減っていないなと思いながら、自分で作り上げた油分たっぷりの回鍋肉を見つめた。リビングに持っていって夕食にしよう。
 世間ではすでに関東も梅雨入りしていて、今年は例年よりも大雨がよく降るらしいとニュース番組のお天気キャスターが言っている。今日も一日雨が降っていて、せっかくの休日だというのに洗濯物が思うように干せないことにギリギリと歯噛みする思いだった。
「食べねーの?」
「あ、ごめん。食べる」
「いただきます」
「いただきます」 
 両手を合わせて食事に挨拶。まずは味噌汁を啜る。テレビはニュースが終わり、ゴールデンタイムのバラエティ番組に切り替わった。
「おいしい?」
「うん。おいしい」 
 もう何回繰り返したか分からないやり取りを、本日も儀式のように交わした。おそらくこれまで準太から「おいしい」以外の言葉が返ってきた記憶がないので、あまり意味のない問答であるとはわかっているが、癖とは厄介なものでなかなか体に染みついて離れない。
 世間は六月で、六月といえば夏大予選の抽選会、そして最後の追い込みの時期だった。去年の夏大が昨日のことに思えるが、ここ1年の記憶をちゃんと振り返ってみると、確かに春夏秋冬のそこら中に思い出が転がっていて、しっかりと1年の経過を思い知らされる。しかし一方でそれと同時に、自分たちの現役時代も昨日のように感じてしまうのだから、感覚とはずいぶん都合がよくできているものだ。
 準太は三年生の最後の試合を終えたあと、意外なほどあっさりと野球から退いた。当時ちょうど彼と付き合うか付き合わないかだった私はそれに非常に驚き、彼と口論になったものだ。何度問い詰めても、彼が試合に負けた勢いでそう決断したわけではないという事実が分かるのみだったので、次第に彼と口論する私の口調はトーンダウンしてしまった。「もう、野球はやらない」準太はそういったかと思うと、どんなに周囲から理由を聞かれても笑みを返すのみだった。ピッチャーらしく我の強い男だ。元より私の説得など聞き入れる気はさらさらなかったのだろう。
 きっと準太はあのとき野球を辞めることを『決めた』のではなく、ずっと前からそう『決めていた』のだろう。おそらく、その1年前の、あの雨の試合が終わったあとから。
 二、三年後に、彼が遊び程度の本気度しかない大学の野球サークルに所属して緩い試合を楽しそうにやっている姿を見たとき、私はなぜかそう確信したのだった。
「夏大の時期だねえ」
「そーだなあ、今年もこの時期が来たな!」
 心底楽しそうに私に笑顔を見せる彼を見るたび、彼が野球のことを嫌いにならなくてよかったと胸を撫で下ろしてしまう。もうあの夏から何年経ってるか数えるのも片手じゃ足りないというのに。
 まるで私だけがあの夏の日の、今よりずっと色が黒い準太の揺れる瞳の中に取り残されているようで物悲しい気持ちになる。
 彼の食欲を心配していたのは杞憂だったようで、あっさりと全ての皿を空にしてしまった。準太は満足したのか肩の力を抜いて背中のソファに身を預ける。うちは食事を作ってもらった方が皿を洗うことになっているので、私の仕事はこれで終了だ。机の上の皿を重ねてキッチンに運ぶところまではやってやろうと立ち上がると、「なー」と準太に引き留められる。
「もうオレたち、付き合って何年?」
「えー、どれくらいだっけ。同棲し始めたのが四年前だから…七年くらい?」
「まじか。え、俺いくつだっけ」
「さすがにそれは忘れないでしょ」
「そっかー、そうかそうかー……」
 いつになく歯切れの悪い準太に首を傾げながらも、回鍋肉の入っていたお皿が冷め切って汁が固まる前に早くお皿をティッシュでふき取ってしまいたい思いに駆られ、席を立とうとする。「まーマテ」とまたしても引き留められた。
「……なによ」
「結婚するか?」
「……は?」
 言われた言葉の意味が一瞬理解できず体がフリーズした。準太の顔をよく見ると、まだお酒も飲んでないのにいつもより血色のいい顔になっている。彼の言葉を何度か反芻して、それがどうやら疑問形だったことを理解し、慌ただしく「するよ!」と答えていた。口の中で舌が縺れて初めの「す」はうまく発音できなかった。
 正直ここ最近、「結婚」の二文字をまったく考えてないわけではなかった。同世代の友達と会えば結婚報告を聞かされる年頃だ。同棲して長いし、準太よりかっこいい人は山ほどいても、どうせ準太より好きになれる人はいないんだろうから、いずれはそういうことになるんだろうなと思っていた。しかし実際に言われてみると頭がどうにかなってしまいそうで、「あぁ私は自分が思っていたより準太と結婚がしたかったんだ」と実感した。
「んなの、するに決まってるじゃん」
 コホンとせき込み、準太のほうを向き直って正座して、もう一度告げる。
「マジ? やったー!」
 垂れ気味の目を細く薄くして子供みたいな喜び方をされた。彼を初めて好きだと感じたあの日からはずっと色白になり、筋肉が減り、うっすら皺が増えた顔だ。きっと私も同じように歳を取っている。彼の前に座る私は、彼からどのように見えているのだろう。
「今度和さんたちにも報告しなきゃな」
「そういうの、普通先にお互いの親じゃない?」
「だってお前のおふくろさんと親父さんとって、もう普通に仲良しじゃん」
「まあそりゃあそうだけど……」
 和先輩を始めとする元三年の先輩方がニヤニヤして持ち合わせて居る語彙を総動員して冷やかされるところを想像して一気に顔が赤くなるが、それを言う準太の顔がこれ以上ないくらい嬉しそうであることに、私もたまらなく嬉しくなってしまっているのだった。唇の端が意識とは別に引きあがってしまうのが恥ずかしくて咄嗟に手で押さえた。目線がうろうろと動く私を見て、準太がブハハと笑う。こんなことで彼の笑いのツボに入ってしまったらムードが台無しだと危惧していると、予想外に頭をぽんぽんと撫でられた。
「なにやってんのお前。かわいいヤツー」
 まだ彩られてもいない左手の薬指をぎゅっと握った。目頭が熱くなるのを感じながら、いつもの憎まれ口はちょっとだけ置いておいて、がばっと準太に抱き着いた。
「ありがとう、準太」
 準太が私をぎゅっと抱きしめる。初めて触れたときみたいに壊れものを触るようにではなく、しっかり力を込めて。
 私はもうずっと、この男と一生一緒に生きていく約束がほしかった。

リボンをかけて水底へ
Title by:as far as I know

私の中の準太が、昔しんどかったこととか全部なんでもなかったように幸せになればいいなあと思って書きました。
(200613)