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 終業時間の鐘はとうの昔に鳴り響き、オフィスに蔓延するのはまぎれもなく淀んだ空気だった。
 例に漏れずにその雰囲気をまき散らしている私は、デスクに置いてある二つのディスプレイと睨めっこしながら、明後日に締め切りが迫った報告書をまとめている。明後日締め切りの割に、進捗はというと思わず顔がひきつるような状態だ。表計算ソフト上の細かい数字を何度も追うため、自然と目は細まり、そして眉間が寄ってしまう。ブルーライトカット用の眼鏡はずり下がり、顔にかかる髪の毛がずいぶん鬱陶しいが、眼鏡をかけ直し、かきわける元気もない。
「精が出るな、みょうじさん」
 鈍い音をさせてエンターを叩くと同時に、背後から鷹揚な落ち着いた声が聞こえた。
 集中しようとしているにも関わらず意識が散漫しているはずの私は、それでもびくりと身体が震える。第一声で誰だか分かっているはずなのに、勢いよく振り向いてしまった。
「お疲れ。また残業か?」
 目の淀んだ私とは対照的に、あまりにも余裕たっぷりににっこり笑われてしまい、ばつが悪い私は慌てて眼鏡に手を添えて持ち上げた。眼鏡のレンズ、ブルーライトを防ぐための黄色みがかった視界を取り戻して、少しだけ余裕を持ち直した。
「なんだ、鶴丸さんですか」
「なんだとはなんだ。可愛い後輩を心配に来たっていうのに。君はそういう、時々とても失礼なところがあるな」
 私の言葉にそう返す先輩の、その言葉尻にあからさまな棘を感じた。
「わーすいませんっ、ちょっとぼうっとしていて、気が抜けてました。すみません!」
 鶴丸さんが不機嫌そうな顔をしたので、慌てて謝罪すると、それを聞いた彼の顔がにんまり満面の笑みに変わる。
「はは、冗談さ。どうだ、騙されたか?」
 得意げな顔をする鶴丸さんの言葉を聞くか聞かないかのうちに、デスクチェアを回転させディスプレイにむき直る。まだまだやるべき仕事が残っているのだ。他人にかまっている暇などない。
「あー、待て待て!嘘だ!すまん、オレが悪かった!」
 慌てた声がして、デスクチェアは再びくるりと回転した。身体が自然と鶴丸さんと向き合い、少し困った様子の鶴丸さんの胸のあたりに視線がいく。私はもちろん椅子を動かしていないから、それを回したのは鶴丸さんの仕業だ。その名残だろう、腕を伸ばした不自然な格好は滑稽だった。
「君はすぐに不機嫌になるな」
「そりゃあ不機嫌にもなりますよ。だってこれ、全然終わらないんですもん」
「それはご愁傷様と言うほかない。にしても、ずいぶん厄介な仕事を抱えているみたいだな」
「せめてもっと早く締め切りを指定してもらえればこんなにバタバタすることもなかったんですよね……」
 がっくりと肩を起こすと、軽やかな笑い声が返ってきた。
「はは、それは早めにやっておかなかった君の自業自得だろう」
 軽い口調で、ずいぶん重い言葉を吐かれた。疲れた身体にその言葉が刺さり、骨と骨の間がきいきいと軋む。
「返す言葉もありません……」
 ため息をすんでのところで飲み込んだ。鶴丸先輩から視線を逸らし、膝の上で作った握り拳を呆然と見つめる。
「ま、仕事が終わらないってストレス溜まるのはわかるぜ。でも、仕事って終わらせるものじゃなくて進めて行くものだろ。だって、一つの作業で完結する仕事なんてないんだから」
 上空から降ってくる言葉にはっとする。確かに、その通りだ。自分一人で話が終わる仕事などないのだ。私がまとめているこの報告書はこれからの会社の方向性の指針の一つになる。たとえ微細なデータの一つとしてしか扱われないとしても、それは間違いことだった。
「……そうやって思えば、少しは前向きにもならないか?仕事が終わらない〜って喚くよりも、もっと生産的なことをしている気分になるだろう」
「鶴丸先輩……」
 その解釈は目から鱗だった。自分の顔が綻ぶのがわかる。なんだかんだ言っていてもさすがは仕事ができる鶴丸先輩だ。「さすがです……」ほとんど本心でそう呟いてしまった。
「はははっ、こりゃあ、また含蓄のあることを言ってしまったなあ!どうだ、俺のことを尊敬しても良いぞ、みょうじさん」
 豪快な笑い声がオフィスに響いた。特別低いわけでもないのに、この人の笑い声は地を揺さぶるような安定感がある。ところどころでキーボードを弾く音がする。残業している他の社員は静かだ。鶴丸先輩がいるだけで、ここだけが、花開く春のように騒がしい。
「そういうところがあんまり尊敬できない要因ではありますよね」
「手厳しいなあ」
 茶目っ気たっぷりに笑われるとどんな顔をしていいか分からなくなり、自然とひねくれた口を叩いてしまう。そうし向け場を丸く収めるところも、彼がたいそう人から好かれるところなのだろう。
「そういえば、鶴丸先輩こそどうしてこんな時間まで?」
 不思議に思って尋ねる。彼が残業をしている姿など、よく考えればあまり見たことがない。
「あー、いや、取引先との打ち合わせが長引いてな。30分くらい前に帰社したところなんだよ」
「にしてもこんな時間まで打ち合わせですか……なかなかえぐい取引先ですね」
「先方、俺のことが大好きらしくてな。なかなか離してもらえなかった」
「へーそうですかーそれはお疲れさまです」
「それに、返ってきたらみょうじさんがいたからな。話しかけるタイミングを狙っていたところだ」
「……は?」
 空気の抜けたような声を出してしまった。鶴丸先輩は顔色一つ変えずに会話を続ける。
「どうだ。今日は上がりにしてラーメンでも食べに行かないか?」
 笑いながら吐き出される先輩の誘いは、今の私にはちょっと魅力的すぎた。
 
 □ ■ □

「結局、諦めてしまった……」
「まあ、そういう日もあるだろう。俺たちだって人間だしなあ」
 がっくりと肩を落とす私をよそに、鶴丸先輩はエレベーターの降車ボタンを押した。扉の上にずらりと並んだ表示はまだ一階で点滅しており、ここ17階のオフィスに辿り着くのには少々時間がかかる。
「正直おなか減ってたし先輩の誘いが魅力的すぎて……!」
 残してきた仕事と、志半ばで帰る私をまるで責めるように小さく鳴いた、就業管理の社員証チェッカーの電子音を思えば正直少々胃が痛くなる。
 ポーン、と伸びやかな音が鳴り、エレベーターのドアが開く。鶴丸先輩が乗り込むあとに続いて、私も乗り込んだ。ドア入り口の右にある地下一階のボタンを押す鶴丸先輩をよそに、エレベーターの奥の方に入った私はまたため息をついた。
「そういえばだな」
 背中を向けられたまま話しかけられる。
「はい?なんです?」
「なんでわざわざタイミングを見計らってまで俺が君を待っていたんだと思う?」
「はあ……まあラーメンが食べたくてですかね。鶴丸先輩、一人ラーメンできないタイプなのかなって」
「おいおいみょうじさん。営業を舐めちゃいけないぜ。昼はだいたいラーメンか定食屋か牛丼だ。一人飯なんてできなきゃ生きていけない」
 要領を得ない問いかけだった。どちらかと言えばラーメンが食べたかっただけの私は、鶴丸先輩の意味を察することができず、再び腹を鳴らした。
「はあ……まあ確かに、営業ってそういうイメージですけど」
 そう返す言葉と同時に、ポーンとまた音がして、地下一階に辿り着いた。
 鶴丸先輩が先に降り、私がそのあとに続く。
 エレベーターのドアが閉まったと思ったら、鶴丸先輩は顔だけでこちらを見やり、「暢気だなあ」と呟いた。
「そうやって、君は時々とてもにぶちんなところがあるからな。そういうところ、早く直した方がいいぜ」
 そう言う鶴丸先輩の眉は下がっており、おそらくこれはうんざりとした顔だ。
「は、はあ!?どういう意味で、すかぁ……!?」
 言い終わらないうちに口をあんぐり開けさせられたのは、いつのまにか私の手のひらが彼の手の内にあったからだ。ひんやりとして、温度が死んでしまったような手のひらは、実際にさわってみるとずいぶん華奢で、それでいてごつごつと骨っぽかった。
「ほら、行くぞ」
「行くって、ど、こにですか」
 急に怖くなった。されるがまま引っ張られて、エレベーターから地下駐車場への道を追いかけっこのように進んだ。裏返った声が恥ずかしいなどと思う余裕は少しもない。おなかの虫もさすがに動揺したのか黙りこくってしまった。
 急に立ち止まり、今度は身体ごと振り返る鶴丸さんの顔にはきょとんとした表情が浮かんでいる。
「どこって、ラーメン屋だけど、……まあ、君が望むならもっと別の、ラーメン屋よりうんと楽しいところでもいいぞ?」
 1メートル先にいたはずの鶴丸さんはあっという間に間合いを詰めて私に近づく。ひょろりと長い足の膝を折って身体を前傾したかと思うと、私の顔を下からのぞき込むようにして今度は顔を近づけてくる。「馬鹿じゃないんですか」の先頭の「ば」すら発音できず息を呑んだ。
 いつもならニヤニヤとこちらをからかう気満々の笑みを浮かべているはずの彼の顔が、依然としてきょとんとしたままだったからだ。意地悪げに広角を上げ、妙齢の猫みたいな顔をしていてくれれば冗談でしょうと返すこともできた。それなのに、先ほどのふざけた発言とは相俟って、鶴丸さんはいたって真面目に、私の顔を穴が空くほど見つめているのだ。まるで本気で、私の次の言葉を待っているかのように。
 それはずるい。
 反則だ。
「行、きましょう……」
 やっと発した声は息も絶え絶え、まさに虫の息だ。
「だからどこに?」
「……」
「……」
「……ラ……ラーメン屋に」
 尻すぼみの声が地下駐車場のコンクリートにぶつかって反響する。依然として手は握られたままだった。鶴丸先輩がはあとため息をつく。
「……まあ、君のそのいくじなしなところ、オレは意外と嫌いじゃないぜ」
 サッカーの試合ならとっくにレッドカードで退場させられている。今日の鶴丸先輩は反則ばかりだ。恥ずかしくて顔が上げられない私をよそに、彼は再び歩みを再開してしまう。私は引きずられるように彼のあとをついて行く。
 なんとも悔しい。このまま握り返してやって彼の死んだように冷たい手をほかほかにしてしまうまで離さないと胸に誓い、繋がれた手のひらを睨みつけることが、どうやら今の私には精一杯らしい。

君には大泥棒の名をやろう(150904)
オフィスパロ、続くかもしれない……