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 夏の終わりが近かった。
「ナツメさーん。もういい加減早くお風呂入ってよ」
 堀川くんが呆れた声を出した。ソファに身体を沈めて、仕事着のシャツに学生時代の短パンという半端な部屋着のまま雑誌を読んでいた私は生返事を返す。帰ってきてもう三回目のやりとりだった。
「シャツしわくちゃじゃない。それだけでも脱いだ方がいいよ」
「いーの。どうせ洗濯して自分でアイロンかけるんだし、問題ないよ」
「そういう問題じゃないと思うんだけどなあ……」
 しぶしぶと言った口振りが遠ざかっていく。どうやら風呂場のほうに向かったようだ。少し温くなってしまった湯船を再度温かめに言ったのだろう。追い炊きを開始します、というシステムの音声が聞こえた。
 ソファの上でもぞもぞともがき、寝返りを打つ。押しつけられた左腕の外側にはソファの布地の後がくっきりと残っていた。
「ねー、堀川くーん」
 聞こえなかったのか、堀川くんから返事はなかった。
 仕事から帰ってきてゆうに一時間は過ぎている。根が生えてしまったように私の身体はこのソファから離れない。
 クーラーがいらなくなった。いつのまにか涼しさも増し、虫の声が増え、代わりにとでも言うように蝉の声が止んでいく。蝉と同じくして夏は死んでいくのだ。夕暮れ時の時間がゆっくりと短くなっていくのを実感できるようになるのは、もうすぐそこだろう。
「ナツメさん、今お風呂追い炊きしてるから、そろそろお風呂場行ってください」
 わかった?と行う堀川くんに、はーいと小学生のような幼さを込めた返事をする。とはいえ、雑誌を畳む素振りをできそうになかった。
「ねえ、ナツメさん」
「なに。堀川くん」
 堀川くんはソファの斜め左に配置したデスクチェアに腰掛けた。キッチンからは換気扇がごうごうと唸る声がしている。
 もう一度、寝返りを打つ。狭いソファの上で寝返りを打つのは、これでいて結構難しい。左腕についたソファの生地の転写が消えないうちに、右腕にも新しく跡がついてしまった。
「そんな風になんでもないふりをしなくてもいいんだよ」
「……」
 聞いてないフリを決め込む私をよそに、彼は腰をあげ、今度はカーペットの上の、足を投げ出し寝転がる私のちょうど腰のあたりに腰を下ろした。私の眼球は条件反射のようにそれを追ってしまい、雑誌から視線が逸れる。
「夏が終わったらさ、秋が来るのは」
 蝉が鳴かない。茹だるような暑さも鳴りを潜めた。
「そういうのは、当たり前のことでしょう」
 甲子園で最後の校歌が鳴り響き、24時間テレビは結局今年もランナーがゴールできないまま終わってしまった。
「……知ってるよ」
 夏が死んでいく。ただ、それだけのことが、滑稽なほどに毎年私を追い詰めてしまう。滑稽なほどに追い詰められてしまう。
 ようやく雑誌を置いて、堀川くんの顔を見つめる。口元は真横に引き結ばれていて、つるりとした頬が陶器のようだった。堀川くんの体重を支えていた腕が微かに動いたのに併せて、自分の身体が小さくびくりと震えたのが分かる。
 彼の腕がまっすぐ伸びて、私の髪に添えられた。
「でもさ、もしそういうのが当たり前だと思えなくても、誰もナツメさんを責めないでしょう」
 その言葉を聞いて、眼球を繋ぐ神経が、微細に何度かわななくのを感じた。私たちの目は合わさったまま、呼吸をするのを忘れてしまったみたいだ。
「……堀川くん」
 その薄い唇にキスを落としたい、と、唐突に思い、その気持ちを隠すように彼の名前を呼ぶ。
「ん?なに?」
「私さ、夏、好きだよ。太陽も暑さも、大っ嫌いだけど、夏はね、大好きだった」
 堀川くんに初めて好きだと伝えたのも、確か夏だった。
 堀川くんは、もう覚えていないだろうか。
「……また来年も来るよ。うんざりするくらい熱くて、ナツメさんが真っ黒になっちゃうような夏が」
「そうかな」
「そうだよ」
「それも、いいかもしれないね」
「きっと来年だってびっくりするくらい楽しい夏になるよ」
 堀川君の目が綺麗な三日月になって、吐息が漏れた。瞬きもせず見つめていると、ゆっくり身体を起こした堀川くんに下から覗き込むような形でキスをされる。体勢を取るために彼の右腕が私の上半身の上を覆った。眠りにつくときみたいに自然に目が閉じて、彼の唇にされるがままに身を預ける。髪に触れていたはずの手のひらはいつの間にか頭の後ろに回され、私の首を支えている。
「……冬になったらさ、鍋したいな。身体があったまって暑くてしょうがないようなやつ」
 口と口を離して、目の前ほぼゼロ距離の堀川くんが笑った。笑って、首の後ろからゆっくり腕を抜いたかと思えば、寝かせた私の髪をそっと梳く。
「ナツメさんってば、食べることばっかり」
 堀川くんの手の甲の上からそっと自分の手を添える。指を何度か動かすと、堀川くんはそれに応えるように指を動かし、私の指に絡め、手のひらの動きを拘束した。
 こんな風にいつも、この人は簡単に私の全てを包んでしまう。
「ナツメさん」
 堀川くんが私のうなじめがけて頭を埋めてきて、
「はい?」
「……そろそろ、お風呂、入ろうか」
耳元で囁かれる。耳元で囁くには、ずいぶん物足りない言葉だと拍子抜けしつつも笑ってしまった。きっと、追い炊きされたお風呂のお湯はずいぶん熱くなっているだろう。また水を足さなきゃいけないかもしれない。
 二度手間だとは思いつつも、何度もやってしまうミスだ。分かっていながら、きっとそれを正せない。いつも同じように私たちは、掴んでは離して仕舞うような、そんな、手には入らないものを求め続けている。心地よいとされる、その塩梅がわからないまま。痛い痛いと、叫び続けながら。
 今日はお風呂、一緒に入らない?
 今なら、ずっと言えなかったその言葉を言えるだろう。くしゃりと笑う堀川くんの髪を、今度は私が撫でるのだ。
 外は淀んだ鈍色のまま、蝉も、クーラーの室外機ももう鳴かない。夏の終わりはすぐそこだ。

おとなになれないわたしでいたい(150827)
夏が終わりますね。