奥歯が欠けた。下の段、右の方の奥歯の後ろから二本目、新たにできた小さな凸凹はことあるごとに私の舌を引っかけてはちくりと痛みを与えてくる。いつ欠けたのか、原因は何なのかは分からない。最近堅いものを食べた覚えもない。ていうか堅いもので歯が欠けるって、おばあちゃんか私は。 「なまえなにしてんのー。鏡じろじろ見て」 「んー?相変わらず美女だなって観察してた」 「大口開けてる顔はぜんぜん美女じゃないわよ。つか美女ってなんだそれ」 眠りの森かよ。 微妙なツッコミを返してきた友達はこちらにうんざりとした顔を向けた後、再び机の上のプリントに視線を落とした。食堂の喧噪もずいぶんと落ち着いて、まばらに人がいる程度になった。私たちはそのまばらの一部分になりながら、空きコマをなんとかやり過ごしている。ん?というか今の言葉を反芻するとあれか?大口じゃない普通の顔は美女ってことか? 「なんかさー、口の中たまに痛いなあって思ったら歯が欠けてる」 「えっババア」 「うるさい。さっき私もそれ思ってた」 「えー、歯医者行って削ってもらった方がいいんじゃないそれ」 見せて見せて、とずいと顔を寄せた友達のためにいっそう口を開く。そろそろ顎関節が痛い。学食で先ほどラーメンを食べたばかりだったので、口が臭いと思われたら嫌だなと思い息を止めた。 「うわー、ほんとだ。でも小さいしあんまり影響しないかもね」 「だよね。ちょっとごろごろするくらいだし」 「ていうかあんたこの課題終わったの」 「残念、私その講義は捨てました」 「えっ、いつ」 「さっき。その宿題見て、無理だなって思って」 「まだ講義三回目だしもうちょっとがんばろうよ」 「そんなものよりもこの手に残されたものを守っていこうと思うんだ、すまない友よ…」 「その菩薩顔やめてくんない、イラっとする」 ふざけんじゃないわよ、と小言を言われながらまた舌で歯列を舐める。舌に触る歯の凸凹でちり、と熱を感じた。友達はというとまた課題のプリントに苦戦している。同様に私の手元にもあるプリントは彼女のものより幾分かぐちゃぐちゃだったので、彼女に返した言葉に幾分か含んでいた「諦める」の冗談の部分をごっそり刈り取られてしまい、私は本当にその講義を捨てることに決めたのだった。そうと決まればこのプリントも可燃ゴミだ。捨てるのも可愛そうなのでいそいそと折り目を付ける。特製紙飛行機を作ってやろう。 「てかさあ、あんたまだあの人と付き合ってんの」 「んー?及川さん?付き合ってんじゃない、多分」 「他人事すぎる言い方だね」 「だって別れようって言われてないし」 「別れようとは言わないのね」 「そりゃあね、四年越しのラブですから」 ふうん、と気のない返事を返される。紙飛行機を投げてみると、ちっとも上手に飛ばなくて、食堂に設置された長机の端っこにひゅうと不時着した。ぐいっと手を伸ばし、なんとかつかみ取る。手元に引き寄せてさらなる改良を試みた。 「隣にいるの疲れない?」 課題プリントは消しゴムとシャープペンシルの黒鉛との決闘でいつの間にか真っ黒だ。彼女は確実にこちらを見ていないし、だから私も、手元の紙飛行機から目線を外さなかった。 「…沈黙を肯定ととらえないでね」 「はは。ごめん、とらえかけたわ」 そう言う彼女はおーわり、と続けてプリントを几帳面に折り曲げ、クリアファイルに仕舞う。それを見る度に私もクリアファイルを買わなければと思うのだった。といいつつもう半年くらい前からの話なのだけれど。 「やば、そろそろ行かないと」 「このコマ、暇になっちゃったな」 「あんたほんとにこの講義捨てるの?」 「捨てまーすすいませーん」 「単位に追いかけられて死にそうになる夢を見てしまえ」 「怖いよ」 「じゃあまた明日ね」 「うん、頑張ってー」 リュックに荷物を詰めきった彼女は、軽く手を振って食堂から出て行ってしまった。入り口の自動ドアがウィーンと開いて、しかしなぜか閉まる音が聞こえないことに気付いて顔をあげると目の前には人影があった。 「及川さん」 「やっほーなまえちゃん、久しぶり」 「久しぶりですね、なまえちゃん寂しかったです」 「ごめんね、お金なくてバイト入れまくってて」 「及川さん、私の友達にすこぶる評判悪いですよ」 「はは、あの、よくお団子してる子かな。オレが言うのもなんだけどあの子可愛いよね」 「きっと原因はそういうとこですけどね」 「でも何人たりともなまえちゃんには勝てないよ」 「あと及川さんそゆとこ結構めんどくさいよ」 「えっひどくないそれ」 弄んでいた紙飛行機は今や持て余す存在になってしまったので、はい、と及川さんに手渡した。 「なにこれ」 「幸せの紙飛行機」 「の割にはよれよれだけど」 「素材は教授の愛の課題プリントです」 「わあ飛ばなさそう…」 及川さんに返答せず私も荷物をまとめようとしたけれど、よく考えたら、まじめな友達と違い私はペンケースすら机の上に出していないのだった。お片づけの時間を短縮できたと見当違いな喜びを感じる。 「まあいいや、このあと講義ないんでしょ、家おいでよ」 「…及川さん暇なの?」 「暇じゃないよ!バイト三昧って言ったじゃんか!今日はせっかくの休みなんだからね!あっ、えっ。ひょっとして予定あった?」 「いやまあ行くんですけど」 「なにそれ。びっくりさせんなよ」 「私もね及川さんのためにこのコマの単位諦めたしね」 「なんかその言い方愛が重いよ…」 今更気付いた?と口からこぼれそうになってしまった。私の愛なんてもうとっくにあなたの致死量を超えているのだ。じゃないと、地元から飛び出して、わざわざ同じ大学の、同じ学部に来るわけないじゃないか。ただの高校の後輩が。私の今期の取得単位が減ってしまうことに責任を感じているのか、及川さんは百面相している。 そんな彼を無視してリュックサックのジッパーを閉めた。それを確認した彼の足が入り口の自動ドアを目指すので、それに続く。 「ていうか、オレの評判悪いって言ってたけどさ、そもそもなまえちゃんだってオレのことどう思ってんのさ」 少し怒ったように私に問いかける及川さんを早足で追い越す。斜め前くらいになったところで及川さんの瞳をのぞき込んだ。目が合う。私で一杯の眼球が見える。 「決まってるでしょ、ちょう愛してます。ラブですよラブ」 早く行きますよ徹さん、と、彼の手を掴み、それに指を絡ませた。なまえちゃんおっとこまえーと茶化すような言葉は照れ隠しだ。彼がバレーを辞めてしまって二年、余裕のない及川徹を引き出せるのは今や私だけ。それが私をどれだけ心地よい気分にさせるか、あの友達はこれから先もわからないだろう、わかるわけがない。咥内で舌を転がす。ちくりとした感覚が舌先に宿る。 私はこれから毎日毎日欠けた歯を舐め回そう。少しずつその凸凹を深くて大きい、鋭利な溝にして、それから及川さんに深い深いキスをするのだ。そうして私の咥内を荒らし、歯列をなぞる彼の舌に、大きな傷を作ろう。絶対に口は離してあげない。彼の血が喉奥に流れ込んできたとしても、絶対にだ。ほどなくして彼も、私も息耐えるだろう。彼は失血死、私は窒息死。最高ね。私そればかりを夢見てた。凄惨な事件が跋扈するこのご時世、必要なのはやっぱりラブですよラブ。ねえ、二人仲良く鉄錆の海に沈んでゆきましょうよ。 ほぞを噛む というわけで、歯が欠けました。(141002) |