※嘔吐表現あり。あんまり綺麗な話ではないです。 「おえ…気持ち悪い」 ちょろちょろとトイレの給水タンクのなかで水が動く音が聞こえる。それに被さるようにして、彼女の口から漏れ出るうめき声が夜中の部屋、その中でもトイレのなかで響いた。ワンルームの居室の方では、付けっぱなしにしていたテレビから申し訳程度な音量で深夜のバラエティ番組が流れている。 彼女がえづくのにあわせて、背中をさすればびちゃびちゃと汚らしい水音が響く。なりふり構わない様子で卑屈に吠え続けている様子はさながら獰猛な獣のようだ。もう胃の中の固形物が出きってしまい、先ほどからその喉奥から液体しか出てこなくなっているのには15分前には気付いていた。水洗トイレにたまっている液体がなまえさんのものと混じってだんだんと黄色く濁っていく。それが胃液そのものだということを知るようになったのは、こうやってなまえさんの嘔吐の介抱に付き合うようになってからだ。 「大丈夫ですか?」 「無理…気持ち悪い」 背中をさする手を彼女のよろよろの手がそっと制す。彼女の目元は今頃生理的な涙で濡れ、マスカラやアイラインで黒く濁っているだろう。 「吐くときにさあ、背中さすられるともっと気持ち悪くなるって知ってた?」 「知ってますよ、あんたに聞きましたから」 「じゃあこの手は何かなあ?」 手のひらの甲をぎゅうと抓られたが、その力もいつもと比べればずっと弱々しい。 「まあ…嫌がらせ、ですかね」 「性格悪いね、赤葦くん」 軽口を言えるくらいには復活したらしい。それでもこの休息は嵐の前の静けさだ。30分後に彼女の前に鎮座しているのは俺ではなくあの無機質な陶器の器だろう。彼女はきっと夜中の間ずっと苦しむことになるのだ。 「ちょっと楽になったよ」 備え付けのトイレットペーパーホルダーをがらがらと回し、彼女と同様よれよれの紙で口の周りを拭っている。彼女が立ち上がったので俺は後退し、洗面所への道を譲った。 「ありがとう赤葦くん」 透明な水が洗面台の蛇口から勢いよく飛び出す。それをコップで掬ってから何度目かのうがいのあとで、そんな言葉が聞こえた。踵を返し室内へと戻る。冷蔵庫からあらかじめ買っておいたスポーツドリンクを取り出し、グラスへ注いだ。 どういたしまして、というのはなんだか釈然としない。 「今日はどれくらい飲んだんですか」 「うーん、そんなに飲んでもないんだけどね」 眉を八の字に垂れさせて、ぐちゃぐちゃの前髪のままのなまえさんはスポーツドリンクをごくごくと飲む。喉の奥が抵抗しているのか、たった一杯のそれを嚥下するのにずいぶん時間がかかっていた。 「あ、でもあれだ。日本酒。私ポン酒だめでさあ〜」 さらっと飲めちゃうぶん、後からがくって来るんだよねえ。 なんでもないことのように呟かれるとさすがに苛立ちを覚える。 「分もわきまえず飲み過ぎなんですよ」 「そう言われると返す言葉もありません…」 溜息をつくとごめんねと反省していないであろう笑顔で返された。 「ちょっと横になっていい?」 「先に風呂入らなくていいんですか」 「今お風呂に入ると全裸で病院に緊急搬送されるけどそれでもよければ」 「…黙って横になってください」 「お、もしかしてお膝を貸していただけるのかな」 なまえさんの頭を片手でがっと掴み、そのまま自らの膝にぐいと押しやった。「あいたたた」と年寄りじみた声を上げるなまえさんの後頭部が俺の膝の上に着地する。 「頭が痛いのに頭を掴むのは反則だよ」 「やかましいです」 「…ありがとう」 緩い笑顔で笑われた。その目元にタオルを被せることによって彼女の視界を強引に奪う。彼女の口が大きく開き、輪郭を形作った後不完全燃焼そうに閉じた。空あくびだ。それは、嘔吐の前兆でもある。 「…軽蔑してる?」 「心配してるだけです」 テレビに目をやった。脈絡もなく、売れていなさそうな芸人が一発芸をかましている。 「こうやって止まらなくなるまでゲロ吐き続けるとさあ、もうやめてー、私は空っぽですよー何も残ってないですよーってなるじゃん」 「そうなんですか」 「ありゃ、体験したことないか。そうなんですよ」 「はあ」 「その感覚がさ、セックスに似てて」 「はあ?」 「気持ちいいのかな、だから」 なまえさんがタオル越しに目元をごしごしと擦った。 「気持ちいいんですか」 「うん」 「あんた、マゾですね」 「炭酸飲料だって、最初一発目空けたときのしゅわってのが味わいたくて飲みたがる人がいるでしょう。あれと同じだよ。その人たちはマゾかな?違うよね」 そもそも炭酸飲料を飲むことには苦痛がつきまとわない。その理論は破綻している。 「意味が分からないです」 「はは、一刀両断だね。そういう赤葦くんが私は好きだよ」 「よく分からないですけど、」 うまくその次を紡げなくて言葉を切った。寝ころんだなまえさんの腹部が何度も動く。この人も生きている。彼女の内蔵は全てを吐き出しても、また新たな養分を求めている。 「あんたは知らないだけですよ。そういう…、単なる…物理的な心地よさだけじゃなくて、…もっと別の、まだなまえさんが知らない心地よさがあるってこと」 口にしてみれば、しどろもどろになってしまって現時点の自分の精一杯を感じた。愛とか、恋とか。その言葉まで恥ずかしくて呟けなかった。 なまえさんの口が一度あいて、そのまま何度か動いてから、ゆっくりと閉じた。なまえさんも、言いたいことが、言うべき言葉が見つからなかったのかもしれない。 「…なーに、赤葦くんは知ってるって言うの」 「まあ、あんたよりは分かってますよ」 「その割に、言葉が自分のものになってないよ」 ぽっと出のアイドルが歌うラブソングみたいだね。 なまえさんの手が動いて、もう一度目元を擦る。泣いているのかもしれなかった。 強がってはみたものの、そんなもの、俺だって味わったことはない。物理的以外の心地よさなんてものがあるかどうかは憶測であり、あってほしいというのは俺の小さな願望だった。 俺はあんたとそれを探したいと思ってるんですよ。 そう伝えたくなって、はっとした。彼女が弱っているからといって当てられてはいけない。そう思って、その言葉は言わないまま頭を振った。彼女がタオルをずらしたので、その瞳と目があった。 それは涙で濡れてなどいなかった。この世界の何一つが、自らの思っているようには回っていない。 「どうしたの、怪訝な顔」 「…水、飲みますか」 「もらおうかな」 起きあがった彼女にグラスを差し出そうとする。なまえさんがもう一度小さく空あくびをした。 「なまえさん、俺は、」 その言葉を言い終えないうちに、見る見る彼女の表情が崩れていく。 「…おえ、気持ち悪い」 口を右手の平で覆い立ち上がった彼女の足はまっすぐトイレへと向かう。俺には一瞥もくれないまま。俺と、二人組のさえないお笑い芸人と、水滴が滴るグラスだけが室内に残された。 「もう黙ってろよ」 トイレの中からうっすら聞こえる水音と自らの溜息が夜中の静寂にこだました。 だから僕は息ができない/赤葦 (140923) |