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 すうすうと寝息を立てる彼女の二の腕を撫でるとひんやりと冷たかったので、心臓の下の方がきゅうと締まった気がした。
「…起きてるの、蛍」
 寝ぼけたようにとろみを帯びた、少し高い声が部屋に響く。狸寝入りではなくさっきまで実際に寝ていたのだろう。舌打ちを打つために口内で舌が転がった。
「別に。寝てた」
「うそつき。寝起きはもっと機嫌が悪いじゃない」
 大抵の場合においてボクは自分のテンションの低さを自覚している。しかし、この人にお見通しだという態度をとられてしまうのが腹立たしい。彼女が知っている月島蛍が増えれば増えるほど、表皮とその下の体内細胞の隙間が粟立つのだった。部屋の端のほうではアロマライトが甘ったるい匂いを振りまきながらぼんやりと光っている。彼女の線の細い体から生えている腕のその先の手のひらがきゅっとボクのシャツを掴んだ。
「…なまえさんには関係ない」
「いやなことでもあった?おねえさんがアドバイスしてあげようか」
 おねえさんという言葉が鼻を突く。嫌みで言っているのならいい根性をしている。彼女の左手の薬指には、兄がこつこつ貯めた貯金をつぎ込んで購入された銀色が光っているのだから。その兄は出張で二日ほど家を空けているらしい。ボクが呼ばれるのはそういう、「間違っても兄が彼女の部屋を訪れることがない」ときだ。
「なによ、何かあるんでしょう。ほら、早く」
 急かされたところで、残念ながら簡単に人に話せるような悩み事もない。
「…バレーってどうやったらうまくなるのかな」
 少し間をおいて、しごくとんちんかんなことを言ってみた。この人を少しでも困らせることができたならそれはそれで構わない。
「簡単だよ。うまくなりたい、って願いなよ」
 しかし予想に反して回答はすぐに返ってきた。彼女の言う「アドバイス」はその一言で終わった。
「願えば大抵のことは叶うよ」
 どこぞの自己啓発本に書いてあるような胡散臭い言葉も、兄を恋の穴に落とし、おまけにボクまで自らの網にからめ取っている彼女が言うと信憑性が増す。だとすれば、この状況を作るために彼女は何度願ったのだろう、思ったのだろう。
「ボクは、今まであんたに1000回死ねばいいって思ったよ」
 精一杯トゲで覆ったその言葉には、「そっか」とドライフラワーのように水分のない声が返ってきた。
「でも1001回死なないでって願ったんでしょう」
 沈黙が部屋に響きわたったのと同じくしてアロマライトの光が切れた。部屋が真っ暗になる。 
 蛍、蛍。彼女が綺麗だと言ってくれた名前は当初こそ花のように芳醇な匂いをさせていたのに、今では土くれのように味気なく、呼ばれるたびにじゃりじゃりと砂のような感覚を与えるようになった。
「コンビニいってくる」
 腹の周りに回されていた彼女の、骨の細い白い腕は牢獄のようだ。それを抜け出してのそりと立ち上がった。癒着がはがれて、そこだけごっそりと現実感を持っていかれる。振り払うように頭を振り、部屋を出るべくワンルームのドアノブを回した。ドアはきいと枯れた声を出した。
「寒いから、そこにあるパーカー羽織っていきなよ」
 言われたとおり周りを見渡すとくしゃりと丸まったままのウインドブレーカーを見つけた。綺麗に整頓された彼女の部屋の中で、それだけが異質を保っている。拾い上げ、右手で掴んだまま玄関へ続く短い廊下を歩いた。
「炭酸水が飲みたいな」
 ドア越しに室内からくぐもった声が聞こえた。聞こえないぐらいの声量で買ってくると言い残して靴を履いた。外を出るとひたすらに白い月がぽかんと浮かんでいる。あの人の二の腕のようにひやりとしているような色だった。秋風はいつの間にか随分冷たい。今頃あの人は再びシーツの海を泳いでいるだろう。そうしながら何を思っているかは残念ながらボクには理解が及ばない。ジッパーを上げるとふんわりと馴染みの香りが鼻孔をくすぐる。もう何年も一緒に暮らし、体に染み着いた家族の匂い。これはきっと兄のものだ。彼女が選んだのであろう、兄が普段選ばないようなこじゃれた配色のウインドブレーカーががシャカシャカと冷えた音を出した。
 1000回死ねばいいと思った。だけれどその先には必ず1001回目の死なないでがあった。それらが分離するのをボクはずっと待っている。それこそが、n+1回目の反抗なのだ。罪深いほど白い月だって背中を向ければ見えなくなる。コンビニへなんか、永遠に辿り着けなければいい。

背骨の中身/月島蛍
(140918)