あの星が落ちてきたらようやく自由になれるのだと、私は知っていたのです。 ぱらぱらと音が鳴り止みませんがもちろんここは戦場ではありませんので、これは機関銃の音ではなく雨粒が傘に当たって跳ね返る音です。案の定というかお約束というか、彼は傘を忘れて登校したというので、こうして暑苦しくも、私の小振りな傘に二人で入っているのでした。傍から見たら甚だ滑稽、時折すれ違う人たちの視線を感じます。 「…狭くてごめんね、青峰くん」 「ああ?…別に、気にしてねエよ。ていうか、傘忘れたのオレだしな」 オレが悪ぃよ。と青峰くんは言いました。人々は彼のことを近寄りがたくて無愛想で怖い、オレ様で自分勝手で厚顔無恥などと表するのですが(最後のは普通に考えても言い過ぎだと思います)、意外と自分の悪いところはすぐに認めるし、反省だってしっかりするし、笑顔だってちゃんと見せてくれる、優しい人なのでした。私だけがそれを知っていて、誰もがそれを知らないことは、もしかしたら随分心地よいことなのかもしれません。 「なんか喋れ」 「え?」 「黙ってると外の視線感じて恥ずかしい」 彼は目つきをうんと悪くして口先を尖らせました。 「じゃあ、ええっと、…心理テストね」 「心理テスト?」 「そう。では、目の前に水たまりがあります。あなたはどうしますか」 足下を見つめる。ローファーの爪先がじんわりと濡れている。 「はあ?…どうするっつったって、そりゃあおまえ、飛び越えるだろ。水浴びでもしろって言うのかよ」 「うん、正解」 「はあ?」 不機嫌そうな、怪訝な声だ。 「青峰くんはね、水たまりを、飛び越える人でしょう。それがどんなに大きくて深い水たまりであろうと、助走つけてでも飛び越えようとする人」 「おまえは?」 「私は、そうだね。避けて歩くよ」 「ああ、そうか…その手があったか」 「ていうか、普通、…そうでしょう」 普通という言葉に身を任せる自分の言葉は随分卑怯な気がしましたし、実際その通りなのでしょう。青峰くんは狭い傘の中でもぞもぞ動きつつ、器用に頭を掻きました。 「考えつかなかったわ」 「そういうとこ、青峰くんらしいよね」 「そうかあ?」 思い切り眉をしかめて、私のほうに怪訝な顔を向けます。綺麗な線を描く眉毛は、いつまでも見つめていたいくらいです。 「うん、青峰君は、そういう感じ」 私の曖昧な笑みを含んだ言葉に、青峰君は何も言わなくて、ぱらぱらと雨の音が一段と大きくなった気がします。さっきとは違い、不思議と、気まずい空気だとは感じられないのでした。 ねえ青峰くん。季節の変わり目に吹く風を、骨と内臓の隙間をかいくぐるようなあの風を意識したことはあるかな。 唐突にそう聞きたくたくなりましたが、すぐに私の頭は思考は正常に戻ります。言うか言わないかどうするか頭をぐるぐるさせて、結局その言葉は声にはなりませんでした。聞こえなかったのだから当然、青峰くんはこちらを向きません。胃に落ちたその言葉は胃酸と混じり合ってより強い酸になってしまったようでした。 小学生でも理解できるくらい単純なお話でした。例えば目の前に水たまりがあったとして、私が迂回する分だけ時間がかかって、その分青峰君は前に進んでいくのでしょう。差がどんどん広がって、その差が溝になって、大きな谷のようになって、大きくて広い彼の背中ですら見えなくなってしまうような、言葉にするなら恐怖と名付けるだろう感覚を、私は上手に拭うことができないのでした。 「ぐんぐん進む、青峰くんは汽車みたいだね」 「あのさ」 「うん?」 「オレは、置いていく気、ねえよ」 「…」 「…」 「…なにが?」 「はあ?…わかんねえなら、別にいいけど」 「…うん」 体内の温度がきゅうううと上昇します。血液が沸点に達して気体になってしまいそう。 もしこれから先、自由の身になることができるときがきたら、いつか言えるのでしょうか。ちゃんと、伝えられるのでしょうか。星が瞬く瞬間、あの星たちが命を終わらせるのを、私はずっと待っているというのに、そんなときが訪れることは永遠にない気がするのでした。 目が眩むほど近い位置にいるはずなのに、彼の手に自分の手を重ねようと思っても、体は強ばったまま動いてくれません。自分のふがいなさについ笑ってしまいそうになる瞬間を彼にちょうど見られて、気まずい思いを抱えることになりました。 すると急に、彼の右手が、乱暴に私の左手を掴みます。 傘の向こうの深い藍色の空を思いました。今日は、ちっとも星が見えないので、私は静かに雨を恨みます。だけれど、だからこそ、こんなに近くで隣を歩けることを、少しだけ感謝するのでした。さっきから青峰くんに捕まった左手からびりびりと電流が流れ込んでいるようで、未だ体が自由に動きません。ああ、だけど。 不自由なこの世界の、なんと美しきこと。 ヘミングウェイの頃(130424)(140913 加筆修正) 青峰お誕生日おめでとう。遅くなったけれど、広い背中を遠くから見ていたいと思うのはずっと、あなただけです。 |