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 シーズンとはいっても、桜はまだまだ咲く様子を見せないままだった。私の心ももやもやとしたままで、それでも時間だけはちゃんと流れていることを今日、しめやかなこの日になってやっと実感する。
 湿っぽさを少しだけ含んだ降水確率10%ほどの卒業式は先程終わりを告げ、今はどこかさっぱりとした、台風のあとの晴天のようなたくさんの笑顔が、休むことなくアーチをくぐっていく。それを遠巻きに見つめながら唇の薄皮を噛みしめた。
「よお、みょうじ」
「…笠松先輩」
「なんかひでぇ顔してんなあ。先輩たちの晴れ舞台だろ、ちゃんと見てたか?」
「…眠かったです、卒業式」
「ははっ、そりゃヒデェ」
「黄瀬くんなんかがっつり寝てましたよ」
「マジで?あいつ…後でシメとかねーとな」
 眉間に皺が寄る。卒業証書が入っているだろう黒い筒と、青地に堂々と海常と刺繍で記されたあのやけに重いエナメルバックではない、黒いリュックを背負った笠松先輩は、今日の良き日にこの学び舎から巣立っていく。使い慣れたボールや、きっと起きている時間のほとんどをそこで過ごしたであろう体育館、そしてそれらとは違って換えの利かないはずの私たち後輩を置きっぱなしにしたまま、この海常高校を去っていってしまう。風がひときわ強く吹くけれど、残念ながら咲きもしない桜は舞わなかった。
「先輩は、」
「おう?」
「…私、どっかで、先輩は、いなくならないものだと思っていました」
「…」
「…いなく、ならないんだって」
「ヒッデエなおまえ。オレ、そんなに頭悪いように見えてたかよ」
 違う。呆れた顔で私に小言を呟く彼に咄嗟にそう返そうとしたが言葉は喉元で怖じ気づいたかのように留まった。このまま冗談だと流してしまったほうがいいのではないか。打算的な計算は、こんなときですら私の心の奥底で寸分狂わず働いている。茶化したような言葉で私の気持ちを半透明にさせてしまうことが彼の答えだというのなら、このまま冗談だと流してしまえばいい。それが最善だ、私にとっても。あるいは、彼にとっても、同じように。
 黙ってしまった私の顔を見、それから視線を窓の外にずらし小さく溜息をつくと、先輩の逞しい腕が、大きな手のひらがにゅっと伸びてくる。笑みを浮かべ損なってしまったような顔をした私は突然のことに驚き身を竦ませる。
「何ビビってんだ」
 しかし予想に反して、その左手は私の頭の上に載せられた。彼は心外だというようにふてくされた表情を浮かべる。ぽん、と、ボトルシップを作っているかのような限りなく精巧な慎重さで私の頭を叩く。いつものような攻撃的な痛みは少しも感じなかった。
「元気でな」
 ぽん。と、もう一度。さらには続けて、
「頑張れよ」
ぽん、ぽん。もう一度。
「…みょうじ、」
 私の名前を呼んだかと思うと、突然ぐしゃぐしゃと私の髪をかき乱す。先程は感じなかった圧力を受けて、思わず彼に頭を垂れるような体勢になった。
「ちょっと、何するんですか!」
「ははっ、」
 先輩は髪をかき乱す手を弱めないまま、
「じゃーな!」
と言った。顔は見えなかったが見る必要もない。声の端がこれ以上ないほど笑っていた。
ぽんと、最後にもう一度頭を叩かれて、私にかかる圧力がゆっくり取り除かれていく。それに併せて声帯まで切り取られてしまったように声が出なくなる。なんといってしまえばいいのか、口は開けたはいいがその先が行方不明だ。
「いなく、ならないで。笠松先輩」
 ようやくだ。ようやく振り絞った声が長い間伸ばし続けた手の指先みたいに、細かに震える。後ろ姿に蚊の鳴くような声で呟いた。先輩の背中がぴくりと揺れたあと固まり、そしてゆっくりとこちらに向き直る。試合や練習中に見せていた、あのまっすぐとした瞳で私を射抜いている。身が竦む気持ちに耐えていると、その眉尻がゆっくりと下がっていった。
「…それは、…聞こえないふりをしたほうがいいやつか」
 今までに見たことのないくらい優しい顔で笑う目の前の彼を見た途端に、私の涙腺はとうとう決壊した。滅多に見せない笑顔を見ることができたからではない。その笑顔が私たちが浮かべるそれとは明らかに違っていたからだ。
 彼が、もう私たちとは違う生き物であることを、コウコウセイから脱皮してしまったことをようやく理解する。
 既視感のない感情が溢れ出す。いろいろな感情を封印して、そしてそこに仕舞い込んだ感情が大きいからこそ溢れんばかりの慈愛に満ちる、そういう笑みを、彼は浮かべている。私の顔が形作るそれとは根本から違う。私がどんなに歳をとっても、この人に追いつくことはできないんだ。
 ゲームオーバーを知らせる鐘は随分前に鳴り終わっていたことに、私はようやく気付いた。
「…うん。先輩、何も聞かなかったことにして」
 できる限り自然に見えるように顔に笑みを浮かべようとして、その試みは見事に不発に終わった。涙が止まらなかった。風が少しも吹かないからずいぶんと空気が滞留してしまっている。彼の過ごした三年間は、そして私と彼のいたこの温室は、実はこのように居心地の悪い場所だったのだろうか。停滞することを願っていた私がどれほど浅はかだったのかを思い知らされるようだ。
 寂しい。ああそうか、寂しいのか。先輩、寂しいよ。その単純な言葉に私のこんがらがった気持ちをすべて預けることができたならどんなによかっただろうか。だけどそんなこと、できるはずがなかった。せんぱあい、間延びした声で先輩を呼ぶと、心底おかしいように盛大に笑われた。
 先輩、行かないで。
 その言葉を紡ぎたいのに、声がおもしろいくらいに出ない。
「じゃーな!」
「せんぱあい、」
「…みょうじ、じゃーな!」
 手を、振らなければ。あのどうしようもなく心配性で優しい人を、ちゃんと笑顔で送り出さなきゃいけない。私には、その義務があるのだから。涙をぐいと拭って、思い切り目を細ませる。
「…バイバイ!先輩!」
 そう言って手を振れば、笠松先輩も勝ち気に笑って手を振り替えしてくる。華やかな喧噪がまだ続いている。
 春は何回でもやってくるのだ。私がなにになろうと、誰といようと、同じようにやってくる。次の次の春が回ってくるころには笠松先輩はおろか私もここにはいない。桜の塩漬けが浮かんだコーヒーを飲んだあとみたいに、ほんの少しの苦みとしょっぱさだけが私を支配する。
 コウコウセイを脱皮した先輩はスーパーマンでなくなった。私のヒーローだった無敵の先輩はもうどこにもいない。
「またな。おまえさ、最高の後輩だったよ」
 それでもあの人は、あんなにも眩しく尊く、卑怯なほど強い光で、私の視界を焼き尽くす。彼が何度脱皮を繰り返しても、その輝きは永遠だ。



トランクルームでさようなら


(140911)