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 もう無理だよなって言ってほしくてここに来たんだって、良郎くんの隣に座ってから私は気付いた。
 良郎くん家の縁側で、月が隠れたり姿を現したりするのをぼおっと見ていた。お向かいさんの良郎くん家は、昔はそれはそれは活気に満ちていたけれど、今はもう良郎くんしか住んでいない。おばちゃんやおじちゃんは、九州に行ってしまったんだそうだ。
 何もかも嫌になって、なんて青臭い理由をひっさげて衝動的に家を飛び出したのは人生でも初めてで、飛び出したはいいものの当てもなく走り回り、結局家の前に戻ってきてしまった。お向かいの良郎くんがたまたま縁側に出てきて雨戸を閉めようとしていたところと鉢合わせした私は、我慢できなくなって垣根を飛び越え浜田家の敷地内に侵入していた。良郎くんはびっくりしたようだが、ちょっと待ってろと言って、すぐに冷たい麦茶を持ってきてくれた。グラスの中の氷がカランカランと音を立てて揺れる。
 グラスを持ったまま俯き、もう何もかもが嫌だ、もう無理だと繰り返し呪詛のようにそう言うと、良郎くんは困ったような曖昧な表情を浮かべた。蝉がまるでシャワーが降り注ぐような声で鳴いている。
「オレがなまえよりもうちょっと大きいころな」
「うん」
「野球だけがすべてだって、思ってたよ。思ってたっつーか、ありゃあもう信じてたな。うん。『浜田良郎』は、あの頃、野球で作られてた」
「そうなんだ」
 唐突な語り口に、怪訝な顔を浮かべながら相槌を打つ。
「これな」
 そう言いながら自分の肘を指す。良郎くんのその肘はこの人の絶望の塊だ。この人は、その肘のせいで二度とちゃんとした野球をできない体になってしまったのだから。
「ある日突然、駄目になっちまったんじゃねえんだ」
 肘を伸ばしたり縮めたりしながら呟く。良郎くんのそれは何かを慈しむような目つきだった。
「少しずつ、少しずつ、動かなくなっていった。オレは、ちゃんとそれを分かっていた」
 私は見ていられなくて、足元を見つめた。ぶらんぶらんとだらしなく揺れる足に意識をやって、なんでもないふりをした。
「ただ、完全に野球をやめるって決めた日。もう無理だってチームメイトや、監督に言った日。オレはあの日からもう『浜田良郎』にもなれなくなった」
 声のトーンがちっとも変わらなかった。もし、少しでも悲しそうな声だったり憤りが感じられたら、私は一緒になって悲しむことも、怒ることもできただろう。そんなことないよって反論だってできたはずだ。
 だけど、良郎くんがちっとも動揺しないから、私の喉元で準備されていたはずの激情はついぞ出てこなかった。
 良郎くんはそれきり黙ってしまった。虫の声が無責任に大きくなる。スニーカーの紐の汚れに意識を集中させた。自分が先程まで呪詛を垂れ流すほどいっぱいいっぱいだったことを忘れてしまうくらい必死で。
 昔の話だ。良郎くんと私は歳も離れてたし、幼馴染と言っても接点があまり持てなかった。だから、いつも共通点ばかり探していた。何か、この人と繋がる要素を求めていた。
 私は良郎くんのお嫁さんになりたかったし、彼女になりたかったし、お母さんにもなりたかった。クラスメイトにも、親友にも、悪友にだってなりたかったし、涙を見せあえる相手や、夜通し語りあって一緒に朝を迎える相手にもなりたかった。
 有体に言えば、私は、苦しい時に横にいて、良郎くんを助けてあげる、良郎くんの周りを覆う繭みたいなものになりたかった。
 でもみょうじなまえなんていうちっぽけな存在は、所詮良郎くんの近くに住んでるだけで、友達にも、彼女にも、お嫁さんにも、クラスメイトにだってなれやしない。そんなこと、誰に言われなくたって知っている。
「だから、無理だって言うのは、駄目だと思う。それは、やっぱり自分で言っちゃいけない言葉なんだ」
 苦しいけどな。その気持ちはわかるよって良郎くんが思っていることが、言葉の端々から感じ取れた。
 ぎりりと苦虫を噛み潰す。
 どこかで信じてた。良郎くんなら。野球をドロップアウトしたことのある良郎くんなら。私のことを受け入れて、そうだよなわかるよ、キツイよな、やめてもいいよって言ってくれることを。良郎くんなら甘い蜜をくれるだろうって思っていた。それがどれだけ心地の良いことか、この人ならちゃんと理解しているだろうと。
 だけど違った。私が思ったより良郎くんはずっと真っ直ぐで、気高くて、そして傲慢だ。自分は諦めてるくせに、どうにもならないしどうにもできないって思ってるくせに、私にはそれをやれと言ってくる。
 そうだ、頑張れって。良郎くんが言うのだ。良郎くんに頑張れって言われる限り、頑張らないなんて選択肢ないんだ。良郎くんがそうやって言う限り、私は、「頑張る」を自ら選び続けるんだろう。まるで機械人形のように。私の浅はかな脳味噌が、はっきりとそんな自分の生態について理解してしまったことに気付いて頭がくらくらする。
 私はもう、頑張りたくなんてないというのに!
 その言葉が良郎くんの口から漏れ出ないことは明白だ。気付いてほしいけど、この人が一生私のそんな気持ちに気付かないことに気付いてしまう。
 絶望は、なんて甘い味がするんだろう。
 横で良郎くんが、くしゃくしゃな顔をして、眉毛を犬みたいに垂らして笑っている。

 まだ少し肌寒さの残る空気が滞留した空の下で、良郎くんがそっと肘を抑えた。顔をしかめなくたってわかる。どうやらもうすぐ雨が降るらしい。

「うん、そうだね。そうかもしれない」
 私は足をぶらぶらと揺らした。声と同時に、体内で許容できない様々なものが私の中から出ていくのが分かった。自分の口から出る薄ら寒い同意の言葉は、いつもの私よりワントーン高くて、違う人みたいだった。甘い絶望を舐めとった後に残るのは虚勢なんだと思い知る。
「良郎くん、私、もう少し頑張ってみるよ」
 自ら高らかに告げた終わりの合図だった。救いなんてものはなかった。良郎くんが、私のその言葉と同じタイミングでくしゅんと豪快なくしゃみをして、ぶるると体を震わせた。申し訳なさそうな顔をしたあと、
「ごめん、なんか、…タイミング悪かったな。…うん、頑張れよ!」
 と言った。金ぴかの眉が八の形になっていて、こう言うのもなんだけど良郎くんらしい笑顔だった。
 声を振り絞って、すぐ横にいるはずの良郎くんのTシャツの裾をくいと柔く引っ張る。虫の鳴く声が止んだ。
「良郎くんはどこにも行かないよ。良郎くんは良郎くんだよ」
 そう言う私の顔を見て、良郎くんは一瞬驚いた顔をした後、風船がしぼむみたいに笑った。この人、初めっから野球から救われる気なんかないんだって、改めて思い知らされる。良郎くんの中で野球はもう『終わったこと』で、反省を次に生かしましょうっていう言葉の『次』に、野球は入ってこない。
「頑張れよ、お前にはまだまだやることも、できることもたくさんあるはずなんだ」
 若いからな。と付け加えられる。すぐにまた大きくくしゃみをしたと思えば、鼻を啜りながら、「そろそろ中に入るか」と呟いた。ありがとうと伝えると、その大きな手が私の髪をわしゃわしゃと撫で回した。黒い雲が月明かりを仄暗くする。
 良郎くんは良郎くんで、それ以上にもそれ以下にもなれないのだから、期待も信奉も無駄な話だった。私が、どう頑張っても良郎くんの同級生にもクラスメイトにも、お嫁さんにもなれないみたいに。
 おんなじだ、と思った。私たちはどうにもならないものを知っていて、それでいて足掻くのをやめているのだ。良郎くんは野球を諦めていて、私は良郎くんを諦めていた。やっと見つけた共通点なのに、ちっとも嬉しくない。
 良郎くんの右手がドアに伸びて、そのまま横にスライドされてカラカラとドアが開く。長い脚を動かして部屋の中に入っていく。
 カーテンが開いて漏れ出た部屋の中の電灯に照らされて、良郎くんをその場に縫いつけるように伸びているその影を、ぐいっと踏んづけた。ずっとここにいてと、願うみたいに、祈るみたいに、恨むみたいに。

影縫いコクウン(140610)