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 涼太は、執着心に執着したがるような人だった。
 二人喧嘩になって私をなだめるとき、彼はいつも私の、その骨ばったくるぶしが好きだと言い張った。その言葉を言われて私が逆上しないと思っていたのか皆目見当もつかないが、やたらと繰り返されるその言葉は、いつのまにか休戦の合図と化してしまった。呆れる私を涼太が強引に引き寄せて、抱きかかえて笑う。厄介なことに、その光景はいまでも瞼の裏で鮮明に思い描くことができた。
「灰皿はいらないよ、持っていっていいよ」
「…これ、買ってきたのなまえだったんだっけ」
 涼太がこちらを見ないまま呟く。部屋から涼太の匂いのするものはほとんど消え失せてしまった。綺麗に掃除されて、灰一つない灰皿は所在なさ気に机の上に佇む。私は涼太の問いに答えなかった。黙って立ち上がりキッチンに向かう。水道から透明な水を出して、洗い場で乾燥させていたコップに注いだ。
 私のくるぶし、煙草、それから私。
 彼の中で優先順位をつけるとすれば、きっとそうだったのだと思う。酔っ払うとくるぶしをしきりに褒めながら、煙草を吸い続ける奇妙な男。ただ本体である『私』は、どうしたってそれらに勝ることができない。
 涼太は執着心を上手に持つことができなくて、だから私はそんな彼を、実体のあるものにしか憑りつくことができない、人の間で語られる幽霊みたいな存在なのだと思った。執着しているという事実が見えることで安心したかったのかもしれない。だから彼はいつもどこか虚ろだった。普通の恋人たちが当たり前のようにやってのけるような、ただ単純に私のことを信じることが、涼太にはいつもとても困難だった。私はそれをなんとなく理解しながら、しかし諭すことも手を貸すこともしなかった。
 涼太が望んでいる以上のものを、もっと与えるべきだったのかもしれないと、今更ながらに思う。もし彼の今いるところが暗闇ならば、手を引いて太陽の下に連れて行くべきだったのかもしれない。しかし私はそんな彼を、ただ悲しい人だと思うに留まった。
「まあ、全部遅いわけだけど」
「なにが?」
 驚いた。いつの間にか涼太がキッチンまで来て、私の後ろに佇んでいたからだ。オレも水を飲みたいと言われたので、もう一つのコップに新しく水を注いだ。シャー。勢いよく水が流れていく音がする。涼太は私が料理をしているとき、キッチンに来てちょっかいをかけてくるのが好きだった。もう何百回も繰り返したこの情景ならば、どんな状況だっていつも通りに対応できるものなのだ。まあ、その「いつも通り」があっという間に無くなってしまうことを、私はもうすぐ肌で感じることになるのだろうけれど。
 涼太の喉仏が水を嚥下してごりごりと動く。
「涼太のこと、ちゃんと恨めたらよかったな」
「なんてこと言うんスか」
 涼太が苦笑する。脈絡もなく私の視界が曇る。
「振ったのは、オレじゃなくてあんたじゃないか」
 涼太のハハ、と乾いた声が響いた。その通りだ。私が手を離してしまった。
「そうだね」
「野暮だから理由は聞かないスけど」
 オレ、いい男でしょ?そんな男を振るなんて名前は馬鹿だ。そう言いながら、涼太の大きなアーモンド形の目が細くなる。
「まあ、一度でいいから涼太が私のくるぶし以外のところを好きになってくれればねえ」
「なにそれ。わけわかんねー。恨み言じゃないスか」
「恨み言じゃなくてさ…結局、煙草に勝てなかった私の根負けかな」
 ホーローのキッチンにグラスを置く。こん、と鈍い音がした。涼太は申し訳なさそうにするけれど、煙草に勝てない私というものに対して訂正を加えようとする姿勢は見られなかった。最後まで馬鹿みたいに涼太らしくて、わけのわからない何かが胸でつっかえた。
「高校のころから、ずっとありがとうね。なまえ。たまに思うんスよ。ああ、あの日に戻れたらなあって」
「戻れないよ」
 ただの例え話だろうに、語尾が強くなって、ぴしゃりと言い放ってしまったようになった。それでも、やんわりと受け流したように、最後までつれないなあと、黄瀬は笑う。私は笑みを返せなかった。沈黙を切り裂くためか、どちらともなくリビングに戻った。
 今までにないほど整理整頓された室内はなんだか余所者みたいで落ち着かない。
「やっぱり灰皿、置いてって」
「…いいけど、なまえは煙草吸っちゃだめスよ」
 形のいい唇が動くのを目で追う。どの口が言うんだろう。涼太の眉毛がぴくりと動いて、顔が歪んだ。
「吸わないから」
 少々の沈黙のあと、そうっスかと静かな言葉が返ってきた。私たちの関係のように、その言葉には少しの抑揚もない。カタンと、机の上に灰皿が置きなおされた。
 私はきっと、これからも煙草を吸わないだろう。
 反対に涼太は、これからも煙草を吸い続けるだろう。
 しかし、この灰皿だけは手元に残しておきたいと思った。私が海外旅行のお土産で買ってきた、購入当初からひびが入っていたような、メイドインどこどこの粗悪品だ。どこの国で買ったのかはもう覚えていない。
「もう行かないと」
 涼太がそっと時計を伺う。
「そっか」
 鞄を抱え、玄関に歩き出す涼太の後ろを静かについていった。厳かな雰囲気はまるで葬列のようだ。座り込んで涼太が靴を履く。やたら装飾の多いトレッキングブーツだった。その靴は私の知らないものだ。いつ買ったのかを聞く気力も余裕も私にはなかった。
 そんなものは、いつのまにか、失くしてしまった。
 さようなら。口を開く。
 ありがとう。口を開く。
 元気でね。口を開く。
 喉が震えるけれど、肝心の声帯が故障したのか、声が出ない。立ち上がって扉を開けて、涼太が出ていこうとする。靴音が響く。距離が開いていく。10センチ、1メートル、10メートル。
 思わず、裸足のまま外に出た。涼太の後ろ姿を追いかけるでもなく、ドアノブを右手で掴んだままでいたのは私の最後の抵抗だった。
「もう…もう、煙草やめなよ!」
 口をついたのはそんな言葉だった。本心でも、言いたかったことでもない。驚いて立ち止まり、こちらを振り返った涼太が、困ったように笑って、頷いたのが遠目でわかった。
 きっと彼は禁煙したりしないだろう。私はまた誰か他の人を好きになるのだろう。何かに執着できない彼の厄介な癖も、部屋をすぐに散らかしてしまう私のだらしない癖も、きっとこれからも直らない。だというのに、私も涼太も、どこにも留まれはしない。
 変わらないものも、簡単に変えられるものも、私たちには何一つ与えられなかった。
 それだけではなかったはずだと思い込みたかった。例え一瞬だったとしても、私たちは途轍もないほど幸福な日々を過ごしていた。それは、忘れたくないと、大嫌いな灰皿を手元に残してしまうほど幸せな記憶だったはずなのだ。
 振り返ってそのまま部屋に戻る。ドアノブから手を離したせいでがちゃんと勢いよくドアが閉まった。それが私には、彼と私の恋の断末魔のように思えてならなかった。そのまま玄関にへたり込んで、自然と手が動いていた。当たり前のようにその右手は、涼太が好きだと言い続けていたくるぶしをすうと撫でていた。二人の笑顔が絶えなかった頃を思い出しながら、あの頃の涼太が言ったように、骨ばったそれを、いつか愛しく思える日が来ればいいと願った。そうすると一気に視界が眩んで、景色が水彩画のように見える。それを誤魔化すように歯を食いしばりながら、何度も何度も撫で続けた。嗚咽が洪水のように、喉元から流れていく。
 もっと上手にできたらなあ。
 それは言わない約束だと、呪文のように自分に言い聞かせる。

最大幸福のこたえ


企画 よいこのための角砂糖さまに提出させていただきました。ありがとうございました。
染まるよ/song by チャットモンチ― (140503)