「なまえ。だから言ってるじゃない、それ、違う」 「…えー」 「あんたほんっと物覚え悪いわねえ」 「玲央さんの教え方が悪い」 「…もう一回言ってみなさい」 「いひゃいいひゃいひゅねらにゃいで」 呆れ顔の玲央さんが私の頬をつねる指からは、ほんのりしょうがの香りがする。ロマンチックとは程遠い。それもそのはずここは居酒屋のキッチンで、私と玲央さんはここのアルバイトである。私よりもずっと麗しい顔をしている玲央さんは私の一個上で、だけれど私の学校とは比べものにならないほど偏差値の高い大学に通っている大学生だ。 思ったより力加減をしてくれていないのか頬が痛いので、とりあえず玲央さんの腕を掴んで外させようとする。私が抵抗するまでもなくあっさり手をどけてくれたけれど、頬はぴりぴりと悲鳴を上げた。 「料理アガりましたー、これ十番さんにお願いしまーす」 痛みに震える私をあっさり無視して通り過ぎていったかと思うと、かつおぶしをふりかけ仕上げをした料理を提供するために業務的な声をあげた。すぐさまホール要員が飛んできて料理を持って行く。お待たせしましたーと、マニュアル通りの棒読み声が遠くのほうで聞こえた。 「玲央くん痛い」 「玲央さんでしょ」 「…玲央さんって居酒屋似合わないよね」 「あんたは頭悪いわよね」 呆れたように言いながら玲央さんは手際よくフライパンを火にかける。次の料理を作るために、私は調理台のほうでいそいそとブラックペッパーや料理酒や調味料、それに仕上げに乗せる小口ネギのタッパーを冷蔵庫から取り出して準備をする。小さい居酒屋なので必然的に狭いキッチンは、私には半分ありがたくて、半分迷惑だった。 それもそのはず私は結構前からずっと、この男のことが好きだからだ。この、自分よりも随分背が高くて、そのくせ私よりも随分麗しい男に、恋をしているからだ。 「なまえはさあ、仕事、できないわけじゃないのになんでしないの?」 「えー、できないよ?私馬鹿だから」 「…ふうん」 至極どうでもいいとでも思っているかのような返事が返ってきた。私は彼に気付かれないように内心失敗したと舌打ちを打つ。愚かさと馬鹿さは似ているようで全く違うものなのだ。そして男というのは往々にして、馬鹿な女を好むのだということも最近ようやく分かってきた。できるだけ嫌味のないように、できるだけ毒気のないように、私はいろんな網を掻い潜らなくてはいけないのだ。 「なまえって、昔はそんな風じゃなかったんでしょう?」 「…なんのこと?」 玲央さんは手を止めないで私にそう尋ね、私は手を止めて惚けた顔で彼を見た。その間にも料理は完成されていく。玲央さんは私を見ないまま、またホールスタッフを呼ぶ。その仕事ぶりに感心してほおと息をついていると、どうやらいったんオーダーがストップしたようだ。手持ちぶさたな私とは違ってようやく一息つくことができるのだろう、玲央さんは濡れた布巾で手を拭いていた。 「私、付き合うなら玲央さんみたいな人がいいなあ」 「…なんで」 「だって優しいし、手際もいいし、それに頭も良くて器用だし!あと、顔も綺麗!」 「ふうん…私はねえ、賢い女が好き」 そうなんだと相槌を打ちつつ、玲央さんの言葉に内心ショックを受ける。ショックを受けて、だけれどもショックを受けていることは分からないようにして、よそ行き用のがっかりした笑顔を顔面に張り付けた。えー、ひどい。なんでよう。言葉尻はできるだけ甘ったるく、わざとらしいほど大袈裟に。 玲央さんはそんな私を見て顔に呆れたような微笑を浮かべると、 「大丈夫よ。馬鹿なあんた、私、結構好きだから」 と言った。 「…え?玲央さん、今なんて?なんて言った?」 思わず期待を込めた眼差しで玲央さんを見てしまう。玲央さんは誤魔化すように曖昧な顔をした。その双眸が蛍光灯の光を反射してきらりと輝いて、私はやはりそれを美しい思った。 男は馬鹿な女が好きだ。だから、私は馬鹿な女になりたかった。有り体に言えば、私は愛されたかったのだ。 「だーかーらーぁ、ずっと馬鹿なあんたのまんまでいてね?」 玲央さんがにこりと笑う。思い出したように、しょうがの香りがつんと鼻をついた。今まで店内は聞き慣れたJポップと客たちの喧噪が立ち込めていたはずなのだけれど、急にすべてが遠のいた気がした。玲央さんの綺麗な瞳がすうと細められ、形のいい唇が細い三日月のような弧を描く。「馬鹿ねえ、なまえ」その笑顔に見惚れる私はまだ、彼の言葉の残酷さに、自分の愚かさに、気付けない。 ままごとみたいにきらきらね/title by アポリナリスのうみ(初出130429)(再録130517) |