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バイトが終わったので同僚たちと口々にお疲れ様と言いながら、ロッカールームへ戻っていく。自分のロッカーの鍵を開けて鞄の中からまずは携帯電話を取り出した。カチカチとメールを受信したことを知らせる青いイルミネーションが点滅していることに気付いて、ついでにそれが誰からのものかということにも気付いて、思わず頬が緩む。「なあに、彼氏?」隣のロッカーを使う子が心底楽しそうな顔をするので慌てて顔から笑みを消す。そんなことないよと言う代わりに携帯電話を鞄に仕舞い自らの制服のボタンに手をかけた。彼女の追及から逃れるためにも着替えを急ぐごう。着替えて靴を履きかえるとようやく帰路につく準備ができた。「じゃあお疲れ!」バタン、つい乱暴に閉めてしまったロッカーがあげた悲鳴はむしろスタートを告げるピストルのような気がした。お疲れーと、口々に声が上がるロッカールームを後にする。歩を進めるごとに彼女らの声が小さくなっていくので、まるで私が舞台の上へ駆け出す舞台女優のようだと一瞬錯覚した。
 誰かと恋愛をするうえで出会いと別れのどちらを覚えていたいかと言われれば誰だって出会いだと答えるだろう。無論私だってそうだ。出会ったときの幸せな感覚を思い出しながら、別れたあとでも時々微笑みたいものだと思うのは、少々感傷が過ぎるだろうか。
 少しずつ早足になって、競歩をしているような気分になりながら待ち合わせの場所へと急ぐ。顔もだらしなくゆるんでいるかもしれないという危惧があったので、氷室くんがメールしてきたコーヒーショップのドアの前で一度自分の表情を確認してから中に入った。コーヒーのいい匂いと、洒落たフレンチポップスが疲れた体に優しい。きょろきょろせずとも彼を見つけることは容易かった。
「氷室くん」
「ああ。バイト、終わったのかい」
「ケータイ見たのがさっきで。遅くなってゴメン」
「気にしないでいいよ。実はオレも課題をやっていたところ」
 氷室くんは先ほどまで文字を記していたであろうノートと、難しそうな学術書を机から持ち上げた。苦笑して下がった眉毛が今日も見目麗しい。
「出ようか」
「うん?」
「少し散歩したい気分だな」
「…そうだね、春だし、最近は随分暖かい」
「でしょ?ね、決まり」
 彼がノートや筆記用具なんかを片付けるのを待ちながら、店内をきょろきょろ見回した。お洒落な内装は氷室くんにはぴったりだけれど、私には随分不釣り合いな気がした。
 コーヒーショップを後にして少し歩くと、国立の大きな公園に辿り着く。私の少し後を氷室くんが着いてくる。ライトアップもされた綺麗な噴水もあるこの公園は、夜になるとカップルが愛を紡ぐ場所として使われることも多い。今日も数組の男女がちらほら存在していた。空いているベンチを見つけ出して座る。氷室くんもすぐに隣に座った。
「大学はどうだい」
「楽しいよ。でも、氷室くんがいないのは少しつまんないかな」
「君は友達を作るのが上手だからね。きっと毎日楽しいんだろうな」
「そんなの氷室くんだって同じでしょう。それに私、多分氷室くんが期待するほど友達いないよ」
 苦笑して返すと何も言わず目を細められた。氷室くんの細い三日月みたいな目を見ていると自分が小さな子供のような、なんとも落ち着かない気分になる。
 氷室くんの近況を聞くことは楽しかった。氷室くんの生活の中には私の影なんかちっともなくて、それでも毎日平和を保ちながら進んでいくのだと話を聞いて思い知った。それは随分と空恐ろしい話だと、自分の毎日だってそうであるくせにすっかり棚に上げて、心の中で嫉妬した。私の近況を話しても氷室くんは楽しそうに笑ってくれる。結果的に会話のほとんどが、氷室くんが私の話すくだらない話を、目を細めながら聴くような形になった。
 蜂蜜の瓶のように甘ったるい、たっぷりとした会話を終えると少しばかりの静寂が訪れた。春風が湿っぽさを運んでくる。氷室くんの織りなす沈黙は、不思議と居心地の悪いものではなかった。
 彼のいない空間で、彼のいない世界を作る。環境が変わるたびに、そんなことをこれから何十年も繰り返すのだと思うと、うんざりする。
「目を、閉じてもいい?少しの間」
「いいけど」
 眠いのかい?と心底不思議そうな顔をして私に問いかける彼に、笑うだけで返した。そうじゃないけど。そう言って薄く笑ってしまいたかったのだけど、運の悪いことに表情筋は可動域を越えてしまったかのように動かなかった。失敗したような曖昧な笑顔のままで小さく頷いて氷室くんの胸元に顔を預ける。
 なんとなく、最近ぼんやり思うことだ。私が氷室くんに求めたのは、優しく抱きしめてくれることとか頭を撫でてくれることとか、そういうものではなかったのではないかと。そうではなくて、悪いことをしたら駄目だよと叱ってくれて、間違ったことをしたら険しい顔で正してくれるなんていう、もしかしたら馬鹿みたいに単純なことなのかもしれなかった。だけれど、私は氷室くんと一緒にいたんじゃそれを多分一生手に入れることはできない。確証はないが、そうなのだろうなと確信した。ぶくぶくと、大きな気泡が私の胸の底に溜まっていくような感覚に襲われる。
 私が求めるものはきっと、氷室くんから得られない。
 だけれど同じように、私だって氷室くんの望むものをあげられたりしないのだ。
 氷室くんの大きくて骨ばった右手が、嘘みたいな温度を保ったままで私の頭を撫でた。
「冷たいね」
「ん?」
「氷室くんの手は、氷みたいだ」
 そうかい?と苦笑している氷室くんが真っ暗な視界の中に浮かんだ。そして寸分狂わない正確な姿としてそこにあり続けるのだ。私の中に生まれた泡も霧散せずに留まり続ける。
「そうかな」
「そうだよ」
 私を抱き寄せる左手を遮って捕まえると氷室くんはまた困ったように笑う。その顔が私はいっとう好きだ。これまでも、そしてこれからもずっと。
 今日彼におやすみと言って家に帰ったら、寝る前に出会った時のことを思い出すんだと思う。優しく微笑む、今より少し幼いあの頃の彼に、私は好きだと囁くのだ。そうしてやっと、私の心の泡は完全に消滅する。そうまでして、いろんなものから目を逸らしてまで彼の隣にいたいと願うこの気持ちを、歪だとしても愛と呼ばなくてなんと呼べばいいのだ。そうじゃなければ私はこの先、なんと言って強がればいいのだろう。
 さん、にい、いち、パン。衝撃音のち、空白が広がる。その感覚で泡が一つ弾けたのだと知る。春の夜風の湿っぽさも涙を流す理由も明日になれば忘れてしまっているのだから、造作もないことだ。氷室くんの冷たくて堅い右手が、不思議なことに温かかった。まったく、温かいのに、優しいのに、心地よいのに、意味が分からないくらいに、そう、悲しい。

(130418初出)(130504再録)
意図せず一個前と似通った話になってしまった。
幸せはとても不味かった/title by 告別