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 恋の終わりと恋の始まりだったら、どうしてか恋の終わりの記憶のほうが脳に焼き付きやすい気がする。なぜ嫌なことのほうが覚えていられるのだろうかわからないけれど、つらいことや悲しいことのほうが、楽しかったことや嬉しかったことに上書きされやすい。「今となってはもう恨み言だけどさ、」とりわけ私の場合だけだろうか。つらいことや悲しいことはいつまでも忘れられなくて、いつの間にか楽しかったことは思い出のどこにも残っていないのだった。
「なんていうか私さあ、大輝と結婚するんだと思ってた。大輝と結婚して、大輝似の子供を産んで、その子が大きくなって、それで」
「やめようぜ」
 大輝の言葉で、言い掛けていた言葉があっさり遮られる。耳鳴りがして、喉が鳴って、だけれど涙だけは出てくれなかった。ソファに大股を開いて座って、膝に身を任せ体を前に傾けて、股の間で両手を組み合わせている。テレビドラマや漫画の修羅場シーンでよく見る光景だなあ。机を挟んで反対側にいる私は正座をしていた。険しく顰められた顔に威圧を感じることはいつからかなくなってしまった。今だって、大輝の言葉から取れる柔らかな拒絶は決して怖くはないけれど、私は不謹慎なことを言ってしまったなあと反省する。別段本気で恨み言を言うつもりで口を開いたのではないのだけれど。
「やめようぜ、そういうのは」
「…うん」
「そういう未来も、あったかもな」
「…」
「まあ、だけど」
 眉をしかめながら頭を掻いて大輝は、さもめんどくさそうに呟く。彼はここ数年で、人を遠ざけるのが随分下手になった。甘くなったといってもいいだろう。なのにその甘さは私にはちっとも都合がよくないのだった。
「誰かと叶えろよ、そういうのは。他の誰かとな」
「そうだね、叶えるよ。ちゃんと、…大輝じゃない別の誰かと」
「ほんっと、最後まで棘がある言い方しかできねえ女だなあ」
 私に、彼に縋りつくような強さが小指の先でもあったらよかったのになあということを、今まで何度思ったか知れない。もしくはこの人がそんな私に気づいてくれて、引き上げてくれたならと、卑怯なことだって数え切れないほど考えた。それは一度だって口から空気に触れないまま私の底に沈んでいき、これから気が遠くなるほどの時間と共に消えてしまうのだ。泡はもう水面には浮かんでこない。
「ねえ大輝。お互いのため、っていう言葉ってさ、実際すごくズルいもんだよね」
「はっ、間違いねえな」
「…私たちは、まあ、別れるけど」
「『お互いのため』にな」
 大輝は諦めたような笑みを浮かべてそう言い、その言葉に私は沈黙した。その人の幸せを願うことが愛だっていうなら、私は今だって十分大輝の幸せを願っているはずなのに、どうしてもう大輝のことを愛することができないんだろう。単純なことなはずのに。私にはよく分からなかった。
「…まー、ズリぃけど、いいんじゃねえ?」
 そういうのも、ありだろ。大輝は笑って言う。そう言えば、そもそも私たちがズルくなかったことなんて最初からなかったかもしれない。少なくとも、私はずっと卑怯だった。
「明日何時に起つんだ?」
「お昼頃の新幹線で」
「元気でな」
「大輝もね」
 なんで別れるんだろう。なんでさようならなんだろう。
 その答えは出ていた。何度も言ったではないか。『お互いのため』だと。どんな理由を付けたところで、自分が別れるという決断を変えるつもりがないこともなんとなく分かっている。どうしようもないことだ。お腹が空いたらご飯を食べるとか、疲れたら眠るとか、そういう類の当たり前だ。
「ため息の数だけ優しくなれればよかったね」
「…」
「でも駄目だったね、ごめんね」
「はは、…相変わらずうざってぇくらいロマンチスト」
 大輝の口から漏れ出る暴言はちっとも棘を持っていなくて肩透かしを食らった気分だ。大輝は変わってしまったし、私も同じくらい変わってしまって、だから私たちがあの時のままでいられるはずがなかったのだ。
「最後だし、ロマンチスト繋がりでキスでもしとく?」
「はぁ?冗談きちーわ」
 乾いた笑みが広がって舌が口の中でもつれた。大輝の答えが分かっていたような気がした。大輝が笑った。だけれどそれも、もう、悲しそうな顔なんかではない。それは私にとっても彼にとっても、もしかしたらとても幸福なことなのかもしれなかった。私の心が波打つことももうないだろう。これから先、少なくともこの人に対しては二度と。どうしようもない居心地の悪さと言葉にできない罪悪感を抱える必要もなくなった。
 私は優しくなれただろうか。
 そんな不確定な事実について聞けるわけもないけれど、大声で叫んでみたくなった。私は最初よりずっと優しくなれていただろうか。どんなに性格が悪くなったと言われても、歳をとったと言われても、太ったと言われてもいい。ただ、私は、最初より、大輝に優しくなれたのだろうか。残念なことに私はもう大輝と初めて出逢ったことのことを、絶対に忘れないだろうと思ったいくつもの夜のことも、朧気にしか思い出せないのだ。
 こうやって忘れていく。そういうものだ。大輝も、同じように忘れて、私とは違う人と、私とはできなかったたくさんのことを叶えていく。お腹が空いたらご飯を食べるとか、疲れたら眠るとか、そういう類の当たり前。そういうものだ。
「星が綺麗だな」
「…どうしたのいきなり」
「うるせえ。おまえのロマンチストにあてられた」
「…馬鹿じゃないの」
 なあなまえ。そう呼ばれて、長い腕がにゅうと伸びてきて頭を撫でられる。初めて会った頃、私はどんな髪型だったっけ。大輝は、どんな瞳の色をしていたんだっけ。思い出せないけれど、私の頭を撫でる大輝の手のひらは多分あの頃よりずっとずっと柔らかく慎重だ。
 甘ったるいミルクティーに、砂糖とバターを山ほど使ったケーキ。大団円で、不条理なほどハッピーエンドで終わる映画。暗闇の寝室と星の見えない夜中、寒い朝、燃えるように真っ赤な夕暮れ。遠くに見える大輝の、普段からは考えられないくらいちっぽけな背中。大嫌いだったもの。本当は一番に好きになりたかったもので、だけれど最後まで好きになれなかったもの。
 好きになりたかった。好きでいたかった。
「キスはもういいけどよ。…握手でもしとくか」
 朝が来れば私たちの関係から名前は失われてしまうことを、私たちはどちらもちゃんと理解していたけれど、どうしてだろう。ずっとこのままでいられれはばいいと思う一方で、私はやっぱり、朝が来るのが待ち遠しくてしかたがないのだ。どうしようもなく矛盾しているけれど、これ以上ないくらい正しいかもしれない。できれば、この人との思い出は楽しいことだけ頭に残ればいいのに。そう思ってやまないけれどきっと不可能だろう。私は一週間後か一か月かはたまた一年後か、分からないけれどきっと悲しくて涙を流すのだ。別れの言葉はお互い言わないままだった。
 好きだったなあ。
 今までずっと一緒にいて、初めて本気でそう思った。好きだった。私、大好きだった。この、目の前の、不器用でがさつで乱暴で、ときどき泣きそうな顔で笑う男が。
 苦しいくらい愛しかった。大輝となら、永遠だって作れると無邪気な子供の振りをした私は信じてやまなかった。
「ははっ」
「なに笑ってんの」
「おかしいな。涙が上手に出てこないよ」
 初めて大輝と出会った時からずっと握られ続けていた心臓がやっと戻ってきたようだ。自分のものになった鼓動にはまだ慣れそうにないなあ。ああ、もう、嫌になる。おずおずと差し出した手を柔く握り返した大輝の手が、死んでしまいたくなるほど暖かい。


(130503)♪happy end(feat.azumi) song by スネオヘアー