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赤いソファがやってきて、彼女の部屋の中心を占領したのは一週間前のことだ。バイト先には自転車で行く彼女の自転車の位置が少しも変わらなくなったのは五日前のことで彼女の部屋に灯りが灯らなくなったのは三日前のこと。そしてオレがそれらに違和感を覚えたのはつい昨日のことだ。ついでに、またかと頭を抱えてしまいたくなた。少し前まで毎日取り合っていたはずの連絡が、ぱたりと無くなった。深夜に居酒屋のバイトが終わるといつも彼女の住んでいるマンションの前を通るオレがとうとう今日足を止めて彼女の家のインターホンを押すことになったのは、こういう経緯があったわけだ。
ピンポーンと間延びしたチャイムの音が、夜の停止した空気をびいいんと震わす。しばらく待ってみたがちっとも返事は帰って来ない。部屋の灯りは消えていたが不在であるようにはとても考えられなかった。なぜかと言われれば説明は難しいが昔から自分の勘が鋭く、しかもそれが殊更当たっていてほしくないことばかり当ててしまうという事実を鑑みれば、彼女の居留守はもはや不可避の事案のような気さえした。
「おいなまえ。…開けるよ?」
そう言ってドアノブを捻ると、鍵は簡単に回った。ここまで想定通りだ。
「…そんなところにいたの」
真っ暗な玄関で、死体のようにぐったりとしたなまえが壁にもたれて座っていた。ドアを開けたことで外の廊下から差し込む蛍光灯の光が眩しかったのかぴくりと眉が動いたことから、かろうじて生きていることが分かる。どうやら死体ではなかったようだ。
「…辰也?」
「何やってんの。いくら最近暖かいとはいえ、さすがに風邪引くよ」
「んー大丈夫」
投げ出していた手をぶらんぶらんと動かしてから
「とにかく部屋の中に入ろう」
「んー大丈夫」
何が大丈夫なのだ。さっきと同じ言葉を呟いたかと思うと、彼女は立ち上がりオレの体を押すと外に出るように促した。足下がフラついていたように見えたのは気のせいだろうか。
「散歩しよー。夜桜でも見ながら」
「はあ…?まあいいけど…その格好で行く気?」
「寒いかな」
「寒いよ」
彼女の疑問に即答する。彼女は半袖の部屋着を来ていたのだ。
「…ちょっと待ってパーカー取ってくる」
そう言ったかと思うと姿を翻し部屋へと戻っていく。馬鹿じゃないの、と舌の上だけで言葉を転がした。玄関のドアから射した光で部屋の中がうっすらと伺える。
が、オレは目を逸らす。逸らして、はあとやけに演技じみた溜息をついた。
「おまたせ」
軽いパーカーを羽織った彼女はしっかりとした足取りで歩いて、靴を履いて玄関の鍵をかけた。それを見越してオレは階段へと歩を進める。カン、カン、カン、と、深夜だからか音がこれまた大袈裟に反響して鼓膜を大きく揺らす。彼女とオレの足音で、世界を揺らす。
彼女のマンションから歩いてすぐのところに、小さな公園がある。桜の木が一本だけあって、ペンキが剥げかけて錆が目立つブランコと小さな滑り台がある公園だ。オレはブランコに、彼女は滑り台のスタート地点に座った。
「…で、なにしてたの」
「んー大丈夫」
またか、と思ってそれ以上の追求を止める。三回目の誤魔化しだった。
なんでもなかったかのように、どちらともなくお互いの近況について話す。オレが言ったことに彼女が小さく笑って、彼女が言ったことにオレが相槌を返した。オレが座るブランコの鎖が、限界だとでもいうようにきいきいと苦しげな声をあげた。
「…すごく、好きだった歌があったの。好きなバンドの、その中でもとりわけ好きな歌」
「…うん?」
言葉を慎重に選びながら呟く彼女から目を逸らし、電灯にライトアップされた不格好な桜はもうとっくに葉桜だ。
「それから、すごく好きな小説のね、すごく好きなシーンがあったの。すごく好きなせりふで、どれくらい好きかって言うとね、わざわざ付箋を貼ってしまうくらい」
「…うん」
要領が掴めず、曖昧な返事を返した。
「でも、」
ようやく彼女に視線を戻したが俯いた顔からは表情は読みとれなかった。
「分かんなくなっちゃった」
「…」
「何が良かったのか、どうして好きだったのか、わかんなくなっちゃった。急に、全部、なんでこんなのが好きだったんだろうって」
そんでね、とこちらに相槌を打たせる隙も与えずになまえは言葉を続ける。
「なんでだろー、好きになったのも、好きだったのも私なはずなのにーって思ってたらなんか…気持ち悪くなっちゃってさあ」
「…気持ち悪くなっちゃって?」
「壊しちゃった。…CDは割っちゃったし、本はカッターで切り刻んで放り投げてそのまんま。あ、二人で買ったマグカップも気持ち悪くて割っちゃったよ。…ごめんね」
ごめんねと言いながら、その言葉から謝罪の意は一切読みとれなかった。はあと、溜息をつくことで相槌を免除してもらう。
ようは、一種のビョーキなのだ。彼女に関してはその言葉で表すのが一番正しいような気がする。
「…怪我は、なかったかい」
「んー大丈夫」
本日四回目の相槌だ。的外れなことを言うねと言外で示すように、嘲笑に近い声音だった。
「つまり、今家の中はぐっちゃんぐっちゃんで、だから辰也はあの中には入れられないの」
「…そうか」
ごめんね。今度はちゃんと感情が籠もった言葉だった。
「全部嘘みたいに思えるんだよね」
動かなかった彼女が急に体を動かす。体が震えて鎖を握っていた手がびくりと動いた。
「昨日まではちゃんと本当だったのに、本当だったはずなのに、突然偽物みたいに思える。昨日の私だって、ちゃんと私なのにね」
滑り台を滑り降り、お尻についた砂をぱんぱんと払う彼女を、今度はまっすぐ見つめた。
「助けて欲しい助けて欲しいって、私はいつもそればっかりだったよ」
うん。
口から漏れ出た相槌が心にもないことを言ったかのような響きかたをしてしまった。失敗したなあとぼんやり思う。
「多分これからも、ずうっとそれを考え続けるんだと思う」
「それって、悪いことなのか?
「私は許されたいだけなんだよ。そんなのは…違う」
そうでしょう。オレに答えを求めているような口振りでそう呟き、演技中の女優みたいに首を傾げる。ぴったり右に三十度。髪の毛がさらりと頬を掠めて流れていく。
「じゃあ、」
頭を抱えたくなるのを堪えて、目を閉じる。暗闇が訪れて、彼女の顔は視界から消える。次の言葉を発するのを一瞬躊躇った。
違う違うと言い続けて、自分の非を打ち明けて、しかし結局のところそれを正す気はこれっぽっちもないのだ。この問答の茶番さと無為さに少し泣けてくる。
「許すよ。オレが、なまえの、すべてを」
「…」
「…」
「じゃあ、…私も許してあげる。私も、辰也の、すべてを」
「これでオレたちは共犯だね」
彼女はオレの言葉に心底嬉しそうに笑い、くくくと喉を震わせる。オレも同じように喉元を震わせた。なんてくだらない、と、心のどこかで思う。同時に、これは儀式なんだと自身に言い聞かせるまでもなく理解している自分がいた。これは、儀式。なまえと、オレが、今日も明日も明後日も、何十日何百日何千日先もちゃんと、「ちゃんと」生きていくための、不可避な儀式だ。なんてくだらない。重ねて、この儀式を求めているのは彼女ではなくてむしろ自分のほうだという事実はもっとくだらない。
「帰ろうか」
「うん」
立ち上がって彼女の手を取った。まるで絵本に出てくる、白馬に乗った王子様のように慎重に、恭しく彼女に手を伸ばし、その手のひらをゆっくりっ握る。
「辰也の温度は嘘くさいね」
「そう?」
「最初からずっと、何があっても変わらない。嘘くさくて、ちっとも信用できなくて、だから好き」
「…そう」
オレを信用したことなんてこれまでだって一度もなかったくせに。言葉を喉元で胃に逆流させて、それ共々帰路につく。生憎なことに、見上げた空には星の一つも浮かんでいなかった。ただ、どこからかわからないけれど春のにおいがした。むせかえるようなそれに今度は胃液が逆流しそうになる。吐き気を振り払うために、オレのそれと比べると随分小さいなまえの手のひらをわざと乱暴にぎゅうと握った。後ろで彼女が笑うような声が聞こえた。
気がした。

オレは彼女を家に送る。けれど決して中に入ろうとはしない。曖昧な笑顔で手を振って、おやすみと言って別れるのだ。
そしてそれは、この世界に存在しうる選択肢の中でもっとも正しい。

きっと彼女が暮らす部屋の中はちっとも荒れ果ててなんていないのだろう。お気に入りのロックバンドのCDは割れることもなく棚に収まり、カーペットの上には塵一つ落ちていない。あの窓際に置かれたお香は今日も緩やかな香りをたゆたわせているだろう。お揃いのマグカップは粉々になることもなく綺麗に食器棚に並べられているはずだ。彼女は毎日、ちゃんと日常を生きていて、そしてこれからも生きていく。嫌になってしまうくらい正確に。
それでいい。何かを犠牲にしなければ手に入らないものもあるだろう。安寧を手に入れるために失うのが例えば正しさとか常識とか真実とかそういうものでも、犠牲としては等価値だ。それをオレは知ってしまった。彼女が正しく明日を迎えるためにその嘘を必要とするならば、そんなのは全然、取るに足りないことなのだということも。

みょうじなまえの世界は、氷室辰也によって守られる。今日も明日もずっと。
守られていく。

彼と彼女の偽装(130407)