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 ミネストローネがやけにしょっぱくて舌の根がぴりりと痺れた。
 その味に顔をしかめると、こちらに注意を払ったのか、なまえが小首を傾げる。が、口にスプーンを運ぶやいなや、同じように顔をしかめた。
「…ミネストローネって、こんな味だっけ」
「明らかにしょっぱいですね。普通より」
 だよねえ、と呟きながらしょんぼりと肩を落とす。俯いたままの彼女の口から、吐息のような「ごめんね」が聞こえた。
「せっかくテツヤくんの誕生日だっていうのに」
「とは言っても、明日ですけどね。ボクの誕生日」
「あと四時間後でしょ。すぐだよ」
「まあ、前夜祭ということにしておきますか」
 スープカップを持ち、啜る。しょっぱさにも慣れてきたのか、最初の一口ほど酷い味はしなかった。口にカップをつけたままふいに目の前の彼女と目が合う。やはり味が気になるのか、その眉は不安そうに下がっていた。下に引かれている電気カーペットの暖かさがジーンズ越しにじんわり肌に伝わる。心地よい空間が形成されるためには、自分の体以外にもいろんなもの、たとえばこの電気カーペットや、お揃いのマグカップや、そして他でもない彼女が必要だということを教えてくれたのはなまえだった。
「テツヤくん」
「はい?」
「お誕生日、おめでとう」
「…フライングですけどね」
「もう。揚げ足取らないでよ」
「嘘ですよ」
「あまのじゃく」
「…そうですね、でもありがとうございます」
 はにかみ屋の彼女の微笑みが降り注がれる。
「明日ね、」
「はい」
「世界一おめでたいのはテツヤくんだけど、」
 そう言いながらテレビをつけて、チャンネルをいくつか変えたかと思えばおもしろい番組がなかったのかすぐに消してしまい、
「でも世界一嬉しいのは私だよ」
と、随分長い間の後そう続けた。
「…」
「…」
「…そうですか」
「うん」
「なんというか、照れくさい。ですね。こういうのは」
「はは、照れてる。可愛いね、テツヤくん」
「からかわないでください」
 怒りますよと眉をつり上げてみたものの、それがただのポーズにしかなり得ないことは自分でも十分すぎるほど理解していた。彼女を前にすると上手にできなくなることが多かった。そして最近になってそれをようやく飲み込むことができるようになっていた。
「好きだよ。どこにも行かないでくれてありがとう」
 ポケットに入れられた鈴の鳴るような声だった。
 このまま、むしろなまえがどこかに消えてしまいそうな気がして、思わず怪訝な顔をしてしまったかもしれない。そんなありもしない妄想に思いを馳せることがくだらないということなどとっくに知っているというのに。自分の鎖を解いてどこへでも行けるのだということに気付いたのは、あの頃ではなくてもっとずっとあとのことだった。気付くのが遅すぎたとは思わなかった。あの頃から今まで、ただの一度もだ。
 ずずず、と最後の一口を乱暴に啜る音がした。顔を上げるとスープカップを顔から離したなまえと目があった。恥ずかしそうにはにかむなまえの顔を自分がこうして真正面から見ていることが時折幻想のような気がしてならない。
「ケーキ、ないんですか」
「今日は前夜祭なんだから、そういうのは明日でしょ」
「…食べたかったです、ケーキ」
「拗ねない拗ねない」
 はは、と乾いた声が付属した。ごうごうと、背中でエアコンが唸っている。彼女の手から、ようやくミネストローネが離された。ランチョンマットの上に置かれたそれは、底まで綺麗に見えた。
「はは、しょっぱいねえ」
 泣いていた。机一つ隔てた向こう側で彼女は泣いた。どうしてかはわからなかった。
ぐいと腕を伸ばしその髪をゆっくり撫でると、身を竦ませながらも体を前に倒して少しでもこちらに近付こうとしてくる。机を隔てている状態で、傍から見たら僕たちは随分不思議な情景に見えるだろう。そんな彼女にどうしようもなくキスをしたいと思ったから、やっぱりボクも彼女が好きなのだと思う。自分の目頭が徐々に熱くなるのを、ぼんやり感じていた。ここではないどこかへ行くことを望むこと。だけどそれを叶えるにはここにしかないものを置いていかなくちゃいけないのだということ。ここではないどこかでしか見えないものと、ここでしか見えないもの。それを知ったから、今があるのだろう。そしてここに留まることを選んだのは、彼女のせいなんかではないことを、なまえに知ってほしかった。ただボクがここにいたかった。それだけのことだったのだと。
 視界が濁るすんでで眼球に力を込めた。さあと波が引いていく。愛しい。これも、つまりはそういうことか。

寂しがり屋の葬列
HAPPY BIRTHDAY TETSUYA KUROKO!(130131)