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- ナノ -

世界の呼吸が止まった気がした。
冷たい風がちりりと頬を撫でて、切り裂かれてしまったような痛みが走る。空があんまり高くて眩暈がした。空気が澄んでいることが一目で分かるような夜、世界は呼吸を止めたのだ。ひどくあっさりと。
「…こんな時間に、いったいなんなのだよ」
はあ、と真太郎がついたため息が外気に触れて白く濁る。もったいぶった喋り方はいつもと変わらないし、このまま変わらないというならそれはむしろ彼のアイデンティティになりうるのではないだろうか。ベージュのタータンチェックのマフラーに顔を埋める私に反して、真太郎は頬と鼻の先を真っ赤にしたまま、その顔を露出させていた。紺色のダッフルコートの先から見える指先は今日も、白い。大きくて長い指の存在感をさらに大きくして、それでいて絶対不可侵の拒絶を孕んでいた。暗い中で、月の光を反射したそのテーピングがやけに目につく。
「寒いね」
「質問に答えろ。何がしたいんだ、こんなに遅くに。大体おまえも明日は学校だろう」
「ね、真太郎。手、繋いでもいいかなあ」
「駄目だ」
ふざけるな、と一蹴されてしまったのでちぇっと舌打ちをする。足元を見つめてそこらへんにあった石を適当に蹴飛ばした。かん、かんかんかん。全てが息を潜める夜は小さい物音でも大きく聞こえる。
「…なにか、あったのか」
小さく小さく、夜のその静寂と同じくらい息を潜めて、真太郎が言う。もうほとんど呟きのような、独り言のようなボリュームだった。
「…」
「…」
「…寒いね」
星が、きらりとも瞬かなかった。世界は呼吸を止めてしまった。
私は真太郎のダッフルコートの裾に手を伸ばす。真太郎がびくりと体を震わせた。その指先を、震わせる。手放しで、美しい光景だと思った。
「なんでもないよ。ただこんなに空気が澄んでる夜は、真太郎と一緒にいなくちゃと思っただけ」
「もう、」
珍しく躊躇ったような声音で、真太郎が空気を濁らした。
「もう、呼び出さないでほしいのだよ」
顔を伏せて眼鏡のブリッジを触る。眼鏡がずれていた気配はなかったので、もはや癖と化したのであろうその仕草はあの頃のまま、何も変わらない。
「あのときとは違ってオレたちの関係に、もう、名前はないのだから」
「…そうだね」
私の言葉はマフラーに吸い込まれてしまって、世界を汚したりしなかった。白く濁りそこねた息は水蒸気となりマフラーを湿らす。
「でもね、また呼ぶよ。私は真太郎を。それに真太郎は絶対に来てくれる」
確信のある声でそう言うと真太郎ははあとまたため息をついた。
真太郎。私ね。あの頃に戻りたい。言いたいことはそれだけだと思った。だけどそれを言葉にすることが、なぜだかどうしてもできない。真太郎がいないと上手に呼吸すらできない。美しい指先が私の髪をさらりと梳いていたころに、できることなら戻りたかった。それだけだったのに。
「…厄介だな」
真太郎が笑う。笑うのだ。あんまり優しく。慈愛を孕ませて。戻る気がないと言いながら、この人は私に容赦してしまう。だから私はそこに甘えてしまうのだ。彼の、ぴんと張ったピアノ線の隙間を掻い潜ることはいとも容易い。
世界が呼吸を止めて、私はようやく浅い息継ぎをする。視界が白んできらきらと瞬いた。落ちてこない星の位置は、今日もやっぱり掴めない。はあ。マフラーから顔を出して息を吐き出すと白く濁って、やがて消えた。消えてしまったのだ、全部。涙は流れなかった。声だけが震えた。
「…ごめん、なさい」
どれだけ泣いてもいい。次に世界が呼吸を止めるときを、私はたった一人で待たなければいけないのだろう。真太郎のことを、もう必要ないよと言えるときが来るまで。そうしたら、私はようやく、上手に息継ぎができるのかもしれなかった。

(121210)(121223 加筆修正)錆びついて凍てつく