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「座る?」
黄瀬が横を顔で促す。私はその横にストンと腰を下ろした。座ろうとしたときに生暖かい風がスカートを攫ったので、慌てて手で押さえる。
「別れた?」
「…別れた」
なんで知ってんのよ、と悪態をつく気にもなれなかった。そりゃあそうだ、さっきそこで彼は私たちの修羅場を聞いていたのだから。やつがあまりにも乱暴に、がちゃんと屋上の扉を閉めたあとにひょうひょうと出てきた黄瀬には、普段彼に対して仏頂面な私ですら面食らった。
「もったいねー。青峰っち、いいやつなのに。まあ口はわりーけど、バスケうめーし、優しいし」
「だから、そういうところが、嫌いだったの」
「ははっ、よくわかんねーけどなまえっちらしーね」
浮気をされていたわけではもちろんない。もともとあの男にそんな甲斐性はない。バスケの合間でも彼なりに構ってくれたことだろう。だけど私はなんでかいろいろなことが許せなかった。
「そういうところが、ダメだった。私にはね。ダメダメだった」
いや、遣る瀬なかったのかもしれない。
「重くはなかったはずっスよ」
「そう、重くはなかった。でも軽くもなかった。黄瀬はさ、知ってる?ヘリウムガス」
「あの、声が変わるやつ?」
「そうそう。まあ、気球とかに使ったりもするんだけど」
「うん」
「あんな感じ」
黄瀬が怪訝な顔をした。「はあ?」語尾が随分上がっている。素っ頓狂な声とはこんな声なのだろうか。
「どういうこと?」
「まー、なんてゆうか、そんな感じだよ。ニュアンス。伝わんなくてもいいの、でも私にとって青峰とのことはヘリウムガスみたいだった。青峰からの愛とか、そういうのも含めてね。全部」
ヘリウムガスに使われるヘリウムのその質量は、空気のそれと比べてもきわめて小さい。密度も驚くほど低く、水素と違って燃えることもない。黄瀬はつまらなさそうに眉を寄せた。大体、これくらい授業でやったはずだのに、どうしてそんなに無知なのだろう。
「ヘリウムは希ガスだけど。ヘリウムガスっていうのはさ、実は酸素がちょっとだけ混じってるって知ってた?」
「へーそうなんだ?知らなかったっス」
「純粋なヘリウムはね。それだけを吸入すると死んじゃうの」
「は?」
「死ぬっていうか、まあ酸欠になるんだけど」
「あー…なんか、言いたいこと分かった気がする、なまえっちの」
正しく、青峰はヘリウムそのものだった。その彼が吐き出す息は、愛は、だからヘリウムガスと呼んでもいいのではないだろうか。暗記していたヘリウムの性質を思い出してみると、ますます青峰にそっくりだ。自分で言っておいてなかなか秀逸な表現だったのかもしれない。
「…うん。私は、苦しかったんだと思う」
彼が純粋なヘリウムだとしたら私はゴムだった。たくさんの不純物を含んだ、のっぺりとした物体。柔軟性だけは人一倍だけれど、永遠に純物質になることはできない。
「でも、優しかったよ。青峰は私を好きでいてくれたと思う。ちゃんと、感謝してる。だけど私にはね。ダメだったんだね、きっと」
私は純物質になりたかったのかもしれない。だけど私じゃ最初から、青峰についていけるはずもなかったのではないかとも思うのだ。遅かれ早かれこの先破局は目に見えていたのではないだろうかと。彼は一つも悪くない。悪いのは最初から私で、最後まで私だけだ。
「…あんたは悪くねーよ」
あまりにも淡々とそういうものだから、私は思わず怪訝な顔をしてしまう。だけどどこかで、その言葉に安堵している自分がいた。そう、私、最初からその言葉を求めていた。望んでいて、誰かが言ってくれるのをずっと待っていた。今更それに気づく。「とかさあ、」ところがどっこい、人生というのはうまく転がらないらしい。黄瀬の声はその前の言葉と寸分違わず、依然として淡々としていた。「言うと思った?」こちらを見て、意地悪く笑う。切れ長の瞳が猫のようにいやらしかった。
「…思った」
「ははっ、思ったんスか。なまえっちはへんなところで素直だね」
「…」
沈黙することで自分を守ろうしたのか、私はなんと言っていいのかわからなかった。「きっと青峰っちはなまえっちのこと、引きずるよ」知っている。「しばらくは荒れるかもしれねえっスね」それも、知っている。「でも、」私はもう一度顔を上げた。その先に続く言葉は、私の知らないものだと直感的にわかったからだ。「でも。いつか絶対に忘れる」黄瀬の表情は淡白だった。
「ねえ知ってた?なまえっち。誰も誰かの心をとどめておくことなんてできないんスよ」
黄瀬の瞳は冷えている。私の心臓は反対に、爆ぜた。
「なまえっちは離れることで自分の存在を永遠化したかったのかもしれないけど。でも、そーゆーのを思い上がりって言うんじゃねえかなあ」
下を向いたときにさらりと揺れた金髪が揺れた。私はこんなときにでも、その細い髪の毛を綺麗だと思った。場違いにドキドキと高鳴る心臓がうるさかった。自分の底を指摘されてしまったからだろうか、恋とは違った類のそれは、先ほどの青峰と話していたときのそれとも違っていた。
「…」
私は何も返せなかった。沈黙が数秒か、数十秒だかその場を支配した。
「…背中くらいなら貸してあげてもいいっスよ」
黄瀬がため息をついた。そのまま私に背中を向ける。そのまま鼻歌なんか歌いだした。その背中に半身を預けて、私は泣いた。目がしょぼしょぼに溶けてしまえば、何も見えなくなってしまう気がした。そしてそう思い込んでしまいたかった。そうなってしまえと願っていた。
君の後ろ姿は今日も美しいね、あいつと違って。冗談交じりにそう言いたかったのに、嗚咽しか漏れなかったのだから笑えない話だ。笑えない、笑い話。
ヘリウムガスを、抜かれてしまった私はこれから上手に飛べることはないのだ。時間とともに浮遊感が私から喪われていく。体がずうんと重くなるのを感じていた。恋しかった、あの息苦しささえも。私が今求めているのは何よりもそれだとすら思った。そしてそんなはずがないことも、もう痛いほど知ってしまっていた。
体が重い。もう飛べない。どこにも行けない。


ヘリウムラバー(121212)