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甘い香りが鼻孔をくすぐる。ベーキングパウダーとバニラエッセンス少々と散りばめられたナッツ、それから大量の砂糖とバター。きっとこれはマフィンだ。自分のお菓子レーダーが反応する。ふらりと教室の横の小さな教室(準備室?とかいうやつだ確か)の扉を開けた。そこにはちょうど女子生徒が机に足を乗っけて椅子をがたんがたん言わせていたところだった。教員用の机と椅子らしい重厚なそれは転んだら痛そうだった。女子生徒の顔は窓から入る光によって逆光になっていてよく見えない。オレはのそのそと歩いて近寄った。机の上には綺麗にラッピングされた何かが置いてある。やっぱり。マフィンだった。ビンゴ。さすがオレの鼻。近づくと少女の顔を確認できた。オレ、こいつ知ってる。同じクラスで、いつもクラスの真ん中できゃいきゃい喋ってるグループの中にいるやつだ。確か名前は、えーと、

「なにしてんのなまえちん」
「…なにその呼び方」
「えー?いけなかった?」
「媚びてるみたいで気持ち悪い。そんんなに大きいナリしてんのに」
「うわーうぜー。大体なんでこんな教室にいんの。ここ入っていーの」
「学校の教室なんだから入っていけない部屋なんてあるはずないでしょ」
「それ屁理屈だっつーの」

彼女のことをなまえちんと呼んでしまったのはとくに親密さとは関係しない。彼女の苗字が思い出せなかったからだ。名前ならクラスの女子がよく呼んでいるから聞き覚えがあった。なまえ。舌によく馴染むいい名前だ。とか言ってみる。なまえちんは足を床に下ろし、がたんがたんと揺らしていた椅子を止めて姿勢を正した。アンニュイな雰囲気というやつだろうか。そういうのを漂わせていて、少しだけ近寄りがたい気がする。クラスの真ん中で甲高い声で笑っているとき、多分彼女はこんな顔をしていない。

「ちょーいい匂いする」
「え?ああこれ?ふふ、いいでしょう」
「マフィンでしょそれ、うまそう」
「そうそう。お砂糖たっぷりバターたっぷりだよ。最近はダイエットーとか言って低カロリーのレシピが流行ってるけどやっぱりがっつり正規の量で行かないとね。お菓子くらいいいじゃない。そう思わない?」
「あー、確かに。オレはまあ食えりゃなんでもいいけど」
「紫原にこのマフィンを食べる権利はない」
「はー、なんでだよ。寄越せ」
「嫌だ。…というところだけど、そうだな、あげちゃってもいいよ」
「…は?いいの」
「いいの。もうねえ、もういらないの」
「…なんで?」
「これ彼氏のために作ってきてたんだけど。フラれちゃったの。さっき」
「…ふうん」
「何その反応。聞いたんだから励ましてよ」
「いやだって」オレ「かんけーねーし」
「そうだけどさあ…あーなんか紫原といると気が抜ける」
「褒めてんの?」
「貶してんの。私ねえさっきまで自分がこの世で一番不幸とか思ってたんだよ」
「ふうん」
「あんたそればっかりね」
「だって興味ねーもん」
「はぁー。いい性格してるわほんと」
「…好きだったの」
「ん?そいつのこと?好きだったかなあ、一応。今まで縁がなかったお菓子作りとかにはまっちゃうくらいは」
「甘いもの好きだったー、みたいな?」
「そうそう。大体そいつがクッキー食べてぇとかマフィン食べてぇとかガトーショコラ食べてぇとか言うから頑張って作り方覚えたのにさ」

まじで無駄だしー。とかため息交じりに悪態をつくなまえちんの言葉には返答をしなかった。甘い香りが鼻孔をくすぐる。早く食べて、と言ってるみたいだ。机の上に置かれたその綺麗なラッピングが、今度はまったく違う意味を持ってしまったような気がする。

「しかし、あれだねー。お菓子作り興味なかったんでしょ?それってすげーよ」
「…そうかな」
「オレだったらぜってー無理。オレが女だったら自分で作れとか言っちゃいそー」
「それ以前に女版紫原とか怖いじゃん想像できない」
「…励ませっていうから励ましてやってんのにうぜー」
「あーあーごめん!揚げ足とりました!スイマセン!」
「…まあマフィンくれるならいーけど」
「現金だな」
「とーぜん」
「…あのねえ紫原。私ねえ、私なりに結構本気で好きだったんだよ」
「…」
「…高校生の付き合いとかさあ、未来なんてないってわかってるけど、そんなん信じてるほど子供じゃないけどさあ。でも続けばいいなあとか、ぼんやり…ううん、違うな。結構本気で思ってたりしたんだ」
「…あっそ」
「…最後まで責任もって励ませよむらさきばかクン」
「そんなこと言うやつぜってーもう励まさねえっつーの」
「ほんと減らず口だねあんたってやつは」
「まああれじゃんー?とりあえず泣いとけばいんじゃね?」
「は」
「オレよくわかんねーけど、まあ頑張ればなんとかなるとかー、言うつもりねーしそうも思わねーし。だからまあ今からヨリ戻すとかー?まあ無理じゃん。どうにもならねーからとりあえず泣いとけば?」
「…紫原ってそんなにいっぱい喋れんだ」
「まじなまえちん今度こそぶん殴るし」
「紫原に殴られたら死ぬし」
「じゃあ死なねー程度に殴る」
「痛いよ」

痛いよ。そうなまえちんはもう一度呟いた。そうして泣きそうに笑う。だからそういう顔すんなっつーの。そんなん何が痛いかもう分かんねーじゃん。心が痛いーとか、ポエムじゃねーんだからそんなこと言い出しそうになるのは止めてほしい。そんななまえちんを無視して、机の上に置いてあるマフィンに手を伸ばす。すんでのところでそれを自分のものではない手がにゅっと伸びてきてそれを阻止した。もちろんなまえちんの手だ。なまえちんの細っこい手はオレより早くそのラッピングを掴んで胸に抱え込む。…はあ?怪訝に思ってオレはなまえちんを見つめた。睨んでいたかもしれない。

「…やっぱやんないっ」
「はあ?くれるって言ったじゃん」
「やっぱあげない。これは失恋の味がするから、ちゃんと自分で食べる。紫原には、」

ちゃんと、紫原のために作ってくるから。そう言ってなまえちんは頬を染めた。オレは怪訝に思って眉をひそめる。そう言ったかと思うとなまえちんはラッピングを乱暴にはがしてお手製のマフィンを食べ始めた。むしゃむしゃと豪快に口を動かしている。つうと、その頬を涙が流れた。粒ではなくて線になってしまっているのでそこだけテラテラ光っている。おいおい、二個も食うのかよ。オンナなのにマジでありえねー。おい、口の端食べかすついてるっつーの。そう心の中でつっこみながら、料理の隠し味は愛情なのよ、母さんは敦のこと考えながら作ってるから、このカレーには敦への愛情がたくさん籠ってるの。昔母さんがそう言っていたことをぼんやり思い出した。それって、ねえ、食べかすつけっぱなしのなまえちん。そういうことって、解釈しちゃっていいわけ?



インソムニアの眠り姫


HAPPY BIRTHDAY 紫原!
(121009)