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小学生高学年のころにはお父さんはもう帰ってこなくなって。中学一年生の入学式の、次の次の週くらいに正式に離婚が決定した。その頃には私も愛というものは限りなく現実に近いイミテーションで、なおかつ長い間は偽造できないもの、つまり永遠の愛など存在しないのだということをしっかりと理解していたしそれ以上の希望も絶望もなかった。離婚届を出しに行く日の朝、少しだけ泣いた。私の頭を撫でるお父さんの手がいつの間にか随分小さくなっていたことに気付いてしまったからだ。元気でやれよ。その言葉もどこか小さく寂しく聞こえた。はて、私のお父さんはこんな人だっただろうか。涙を流しながら脳味噌の別の部分でそんなことを考えていた。悲しいというのはひとまず放っておいて、純粋に、疑問だったのだ。
母と父の離婚も、積み重なった借金の返済も、母の再婚も、新しいお父さんとその連れ子と新しく家族になるんだってことも、このご時世、誰の身にだって起こりうることだと思ったのだ。だから私だけ不幸だ、なんてことは正直思ったことがなかった。ただなんで私ばっかりこんな目に、とは思うときはあった。こんな目に、というのが不幸か幸福かは、正直わからない。漫画好きの新しいお父さんは私に漫画を買い与えてくれたし一緒に映画も見に行ってくれた。私のお母さんは車を運転しなかったので貴重な足代わりになってくれることもあった。幸いなことに新しいお父さんと私は馬が合ったのだ。ラッキー。好きな漫画も買ってもらえて、遊びに行くときに送ってもらえて、話は面白くて、若くてかっこいいお父さん。私はラッキーなのだ。私はそう思うことにした。だから悪いことばっかりではなかったのだけれど、だからこそ時折思う。なんでこんな目に。お母さんと新しい弟との不仲。まあこれも、きっと誰にでも起こりうることだ。家族になったといえども結局は赤の他人だ。本物の家族ですら突き詰めれば他人だというのに、全く違う価値観を持った赤の他人と完全に不満なく生活できるとしたら私はその家族に拍手を送るだろう。ここまで来ると巡り合せ、つまるところ運の問題だ。そこでだ。私は目を瞑ることにした。誰にでも起こること、誰にでも起こること。こんなのは、全部、誰かしらが被らなきゃいけないものだ。馬鹿みたいな量を分母にした確立と統計の上に成り立っている、ババ抜きみたいなもの。ババをひいてしまったものはしっかり罰ゲームを受けなければならない。だから私がこんな目に合うのも仕方ないし、お母さんがこんな目に合うのも仕方ないし、新しいお父さんが新しくできた弟を何度も叩くお母さんを見て困り果てるのも、それで弟が泣き喚くのも、仕方ないこと。もう何度思ったか知れない、「なんでこんな目に」ため息と苦笑が零れる日々が続いた。それでも私は不満を洩らさなかった。もはや洩らす不満も見つけられなかったのかもしれない。ただ代わりになるように、私の両手の先についている爪だけがぼろぼろになっていた。


「爪、」
「…あ」
「また噛んでるぞ」
「…やってしまった。無意識です完璧、無意識!あーもー、直んないなあ、これ」
「なまえ、手の爪ほんっと小さいもんな」
「…うっさい。ていうかそれは生まれつきだもん。手も小さいし!」
「噛むからだろー」
「そうだけどー、でも、爪を噛んでいるだけではないのですよ」
「なんじゃそりゃ」
「噛んでばかりじゃ爪がなくなっちゃうと思って時折指の周りの皮を剥ぎ取る作業にシフトチェンジしたりします」
「最悪じゃないか馬鹿野郎」
「ばっ、馬鹿野郎とはなによ!ひどい!大体私野郎じゃないし!」
「もー、まじで止めろって。ほら、ぼろぼろじゃん」

木吉が私の手を取って、爪をじっと見つめる。居心地が悪くて目を逸らした。こういうとき、どうしていいかわからなくなる。木吉は私の手を、まるで品定めでもするように見つめる。ほら、鑑定団に出てる専門家がやるような、あんな感じ。目をすうと細めた木吉の顔はかっこよくて、それを見るのは結構好きなんだけど、うん、でも、対象が自分の爪となると、話が随分変わってくる。というか単刀直入に言って、嫌だ。これは私の悪癖であって、直したいところで、直さなきゃいけないところで。そんなの私だって分かってる。重々分かってる。分かりすぎて困っているくらいだ。だからそんなところを見られたって結局渋面しか返ってこない。今までもみんなそうだった。それを分かっているから私は人知れず爪を噛むのだ。多分。

「大人になるまでに直さないと」
「とは思ってるんだ」
「あったりまえです、なんだか未成熟な感じがするじゃない。悪癖よ悪癖」
「…確かに、あんまり褒められた癖じゃないよなあ」
「デスヨネー」
「…よし、なまえ!」
「は、はい?」
「爪噛む癖、頑張ってオレと直そうぜ!」
「ええ、なんで突然テンションあがってんの…?」

木吉がガッツポーズして、ドヤ顔で私を見る。突然のテンションの上昇に着いていけない私は戸惑いを隠せない。これだから体育会系は。頭を抱える私を余所に木吉は息巻く。私と木吉はいつもこんな調子だ。私が呆然と木吉を見つめていると木吉はちょうどお笑い番組の再放送を流していたテレビを消した。私の前に正座する。なんだか居心地が悪くなって私も正座し直す。…なかなかシュールな図だ。木吉の顔は真剣だった。

「まずこうなった原因を考えてみようぜ、なんかそこに糸口があるかもしんねー」
「ねー木吉、私の悪癖を議題にされるのはちょっと嫌だったりしたりするかもしれなくなくなくもない」
「どっちだイミワカンネー」
「わ、たしには木吉が意味わかんないよっ!」
「とりあえずお前いつから爪噛む癖始まったんだ?」
「無視か。人の話聞いちゃいないよこの人…え、えーと?中一?とかかな?」
「おお、結構長いな」
「うん、まあ…て、こんな話、楽しくないでしょう」
「んー、じゃあその周辺できっと何かあったんだな」
「ま、全く聞いてないよこの人。嘘でしょ…」
「なまえ、そこらへんでなんか、挫折とか失敗とかしたりしてないか?結構大きな感じの」
「え?」
「だって爪噛みは、」

ストレスとかコンプレックスとか不満とかのあらわれだって、よく言うだろ。木吉の声がぽんと声帯から飛び出して私のパーカーのチャック部分にあたってぱらりと落ちた。床一面に広がる。なんでもない顔をして木吉がこちらを見ている。私の口角よ、仕事をしろ。こんなときのために有給ためておいたんじゃないぞ。ほら、今こそ働くときだ、活動しろ。

「…あー、そうだね、それ、よく言うねそういえば」
「だろ?だから、なまえの爪噛みのルーツってそこにあると思うんだよな」
「うわ、ルーツとか。西洋絵画の歴史とかシルクロードみたい。大袈裟だな」
「で、なんか思いついたか?」
「えーと、うーん」思いつくけど、ていうか模範解答までほとんど知ってるけど、「わかんない、かな…」

首を傾げながらとぼけてそう言うと、木吉は見るからにがっかりした顔をした。残念だなあと呟く声は私までしっかり聞こえている。私は答えを知っていて、それでいて黙っている。少しだけ罪悪感というか、もやもやする。

「うーん、まあほら、いろいろあったんだよその頃の私には」
「…」
「ねー、もういいじゃん。テレビつけよ?」
「だって直したいんだろ?じゃあ頑張ろうぜ!」
「そんな熱血になんなくていいっつーの…」
「なあなまえ、ちゃんと考えてみないか?いい機会かもしれないぞ」
「いいって」
「よくない」
「いい」
「全然、よくない」
「いーんだって!」

思わず声が荒げた。そんなに怒るなよ、と木吉はやっぱりめげない。普段ならそんな彼に戦意喪失する私が折れるのだけれど、今回はそんな余裕が私にはないらしい。

「だからあ、私にはきっと心がないんだって!」
「はあ?」

木吉が怪訝な顔をする。ああもう、イライラする。口から呪文のように言葉が漏れ出る。止められる術があるのなら私の方が教えてほしかった。

「私の家、普通じゃないんだって。普通の神経じゃ笑っていられないことばっかりの人生なのに、なまえは偉いねってこの前お母さんが言ってた。でも私、そう思ったことない。ただの一度だって。そりゃ私だって失敗を嘆いたり、家で揉め事とか起こればあーあ、またかあとか思ったりするけどさ、私、自分のこと不幸だなんて思ったこと一度もない。でも、きっと」

「違うんだと思うの。私が感じてこれなかっただけで、ちゃんと理解できなかっただけで、私の周りはもう随分異常事態だったんだと思うの。大袈裟だって、笑っちゃう?でもそうじゃないんだよ。親の離婚も再婚も多額の借金も家庭内虐待も全部誰にだって起こることだよ。だけどそれが全部重なって、それ以上の歪みが生まれて、それはもういよいよ普通じゃないんだよ」

「木吉、私木吉に家庭のこと隠したりしてないの知ってるでしょう。私が学校で、いろんな子に面白おかしく話したりしてるの聞いてるでしょう。今日の親のセックスがどうだったー、もう最悪ーとか、言ったりしてるんだよ私。自分の家庭内の問題、笑いのネタに使ってんの。最悪でしょ」

「弟が殴られてるときも、めんどくさいときは無視しちゃうんだよ。頑張ろう、止めなくちゃって思う間もなくもういいやって思っちゃうんだよ。だって仕方ないじゃない弟もババを引いたんだもん。私だって私の分の罰ゲームを必死で履行してる最中なのに人のことなんて構ってられないよ。そんなバカげたことを、本気で考えて、そんで実行してるんだよ」

「だってさあ、仕方ないじゃん。日本中のどこかで毎日でも毎分でも起こってるようなことじゃん。それにいちいち傷ついて、悲しい顔して、毎日めそめそして暮らすなんて不可能だよ、そんなの無理だよ。ねえ木吉、人ってね、笑わないと笑えなくなっちゃう生き物だと思うの」

「でもさあ、やっぱり時々申し訳なかったりもして、で、同時になんでこんな目にって思うことも、あったりしてね。不幸だまでとは思わなくても、どうしてって。自分で改善する気もないくせに都合が悪くなると人のせいにしてみたりね。で、そんな自分に自己嫌悪して、ちょっと涙なんかも出て。それでも次の日学校に行っちゃったらそんなのつるっと忘れちゃうんだよ。あー数学だるいなーとか、寒いから外走りたくないなーとか、今日お昼ご飯何かなーとか、そんなしょうもないことで弟の泣き顔とかお母さんの般若みたいな顔とか全部忘れられんの。私って、おめでたいでしょう」

「ねえ、なんでだろう。なんなんだろう。全部虚ろで、中途半端で、私って、なんなんだろう。私はからっぽのがらんどうかもしれないって、たまにすごく心配になるよ。じゃあ今のこの、私の、木吉のこと好きだって気持ちはなんになるのかな。なんて呼べばいいの?愛?そんなの存在しないよ今まで生きてきてありやしないってことしかわかんなかったもん。じゃあ恋?そんな可愛いものなんかじゃないよね。だって私、木吉とキスもしたいし抱き合いたいしセックスだってしたいよ。じゃあこれは、なんなの」

「私、ほんとはなにもわかんないの。だから見えないふりをしているの。消してるの、全部全部。目を逸らしてさえいれば現実は結構私に優しいから」

「あのね木吉、本当はね、多分怖いんだよ私。私には心がないから、あっても味噌っかすだから、爪を噛むことは不満のあらわれで、コンプレックスのあらわれで、私これがないと自分のコンプレックスさえなくしてしまいそうで、怖いんだよ。それに本当は苦しかったのかもしれないあの時期を、忘れちゃうような気がして、怖いの」

「ずっとこれだけで表現してきたんだよ、これ以上何も言えなかったんだよ。私はこれ以上大切なものをうしなってしまうのが嫌なんだよ、だから」


そう言葉を紡いで、だけど続きがどうしても浮かんでこない。だから。だから、なんなんだろう。そこまでして、はっと気づいた。私、何を長々と語ってしまってるんだろう。誰も私の演説めいた愚痴なんて聞いてないですよねそうですよねスイマセン!慌てて取り繕うためのセリフを考える。「…と、まあ、いろんなことを長々と言ってしまいましたがこれ昨日やってたスペシャルドラマの主人公のセリフ」「なわけないだろ」「…そ、ソウデスヨネー」「はーあ、なんだよそれ、オレ知らないし、ていうかマジで知らないことばっかだし、そういうことはちゃんと言えよなー」「えーと…ご、ごめんなさい?」「あとなまえの話聞いてて分かったことがある。オレの間違いも、なまえの間違いもだ」「は、はい…?」「まず俺の間違い。なまえは爪噛む癖直す必要ない。思い切って噛め。噛んで噛んで、噛まなくなってもなにも失くさないって思ったら、止めればいいよ」「な、なにそれえ…?」「そんで、なまえの間違い」「…」「二つある」「ふ、二つもですか」なんだろう。「まず一つ目、お前が心を持ってないわけがない。なまえはしっかり心に入った、生身の人間だよ。ただ少し痛いことに鈍感なだけで」「…」「それから二つ目。愛は存在ないって言ったな。それ、間違い」木吉は大真面目な顔をしてそう言った。私はもっと自分の非難されるべきところは別のところにあると思ってたので、正直拍子抜けする。「…はい?」「愛は存在するよ。それは本当。なまえが百パーセント間違いだ」「な、何言ってんのー。愛とか、マジになっちゃって、バカらしい」「馬鹿らしくない」「バカらしいよ」「馬鹿らしくない」「…じゃーもうそれでいいよっ!」「だからたとえばここに籠ってんじゃないか?」「う、え?」木吉が急に私の右手を取り、ぼろぼろになった親指の先に唇を落とす。がさりとした感触は私の指がズルむけだからだ。「愛とかいうヤツ。この親指の先っちょに、なまえのぼろぼろの指先に」「…」「…」「木吉、恥ず、かしくないのそのセリフ…」「うん、想像以上に恥ずかしかった」「なんだそりゃ…」「だから愛とか、まあ、存在してるから」木吉がはっきりとそう言い切ってすっきりした、なんて顔してるから私は思わず笑ってしまった。愛だって。存在してるんだって。笑っちゃうよね。でも泣きそうだよ。どこにあるんだろう。どんな形してるんだろう、見えない?見える?木吉が私の手に自分の手を絡めてぎゅうと握った。わかんないけど、全然感触ないけど、だけど確かに、存在しているらしい。そうだなあ木吉の言葉を借りるんじゃないけど、たとえば。私とあなたの繋いでる手と手の間にとか、なんて。ええと、そんなの、どうですか?





悪癖






鉄鋏













心中





(121005)(140103 再録)