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減価償却という概念がある。大学に入ったばかりの授業で習ったものだ。買った物は、建物でも品物でもなんでも、その時点から時間が経つに連れて少しずつその価値を擦り減らせていくというものだ。だから最後には最初に買った時ほどの価値は、もはや存在していない。それなら、最後に残った価値がその物自体の価値ということだ。
そこで質問。私がこれから生きていくうちに、今持ってるものをどんどん手放したとして、両手がすかすかになった自分自身に一体どれほどの価値が残るのか。厳しいけど私のことを一心に愛してくれる親とか、少ないけどお金とか馬鹿だなあと私を諭してくれる友達とか優しくてかっこよくて空気が読めて頼りになる私にはもったいないくらいの彼氏とか。お気に入りのこの緑色のカーペットやマグカップや、壁にかかったポスター、誕生日に親から買ってもらったちょっと値段の張る時計や健介からもらったネックレスとか、一年記念日にもらったこれまた少し値の張る(と思われる)ペアのリングとか。私が私の価値だと思えるそれらを、財産だと思えるそれらを全部失くしてしまったとして、それなら。

私の持つ残存価値は、私自身につく値札は、一体いくらを指すのだろう。


「ただいまー」
「おかえり。遅かったね。飲み会楽しかった?」
「まーいつも通り。先輩が次はお前も参加しろっつってたぞ。てゆうか、お前が起きてると思わなかったわ」
「健気な私は彼氏の帰宅を待っていたのであります」
「はいはい。健気な彼女を持ってオレは幸せです」
「というのは嘘で明日提出のレポートが終わってません」
「さっさとやれ」

健介がその場で当たり前みたいに服を脱ぎ始めて、スエットに着替える。この光景も最初の頃こそ緊張したもののもう慣れっこだ。風呂に入らないのかと聞いたら明日の朝入ると返された。テレビ前のテーブルでパソコンと睨めっこしていた私も一息入れようと後ろに手をつき体を倒す。横に健介が腰を下ろした。

「健介、酒臭い」
「仕方ねえだろ、飲んでたんだから。嫌なら顔近づけんな」
「そんなこと言わないでよお」
「なまえ、なんか甘い匂いすんなあ」
「…酔ってる?」
「酔ってねえ」
「ちょっと、チューしてくんな。健介相当酒臭いよ」
「お前が顔近づけてきたんだろ」
「ふふー」
「笑ってんじゃねえよ」
「レポートの息抜きですよ健ちゃん」
「健ちゃんって呼ぶな…ってお前、鼻毛」
「ん?」
「ぷっ。鼻毛。はみ出してんぞ」

なんですと。甘い雰囲気をいっぺんに振り払われて、頭の中で勝手に流れてたメロディアスなBGMもふっと途切れる。目の前の健介が豪快に噴き出した。私はさっと顔を離して、下を向いて鼻のあたりをごしごしと擦る。取れただろうかと思っても確認してもらうのも恥ずかしい話だ。ついさっきまで甘い雰囲気を作っていた自分も相俟って一気に情けなかった。

「うわーウケる。なまえ間抜けー」
「…」
「って、うわ、え?え?なんで泣いてんの!?」

健介だって本気で私をけなそうと思ったわけではないだろう。彼がそういう人間だってことを十分すぎるくらい私は知っている。ただ会話の一端で、軽い気持ちでいつもの調子で私をからかって、同じように私が軽口を返すのを待っていたのだ。それなのに、私はいつの間にか涙を流していた。慌てふためく健介の声が聞こえる。
なぜ泣くのか?わからない。ただ、思い当たる節があるとするなら、私は自分が情けなかったのだ。なんてことはない。申し込んだバイトに落ちたとか。持っていたスキニ―ジーンズが最近少しだけきつくなっていきた(つまり太ったってことだ)とか。ようやく公表された前期の成績が自分で思っていたより全然悪かったとか。冷蔵庫でいつのまにかまた野菜を腐らせてしまったとか、洗濯するときに間違って洗剤をぶちまけてしまったとか。ようやく掃除が終わったと思たらタイミングよく電話口でお母さんに最近ちゃんとしてるかと窘められたこととか、自分に言い訳してためにためたレポートの期限が明日だとか、自分で飲み会の参加を断っておきながら健介が私のいない空間で楽しいことしてたこととかそういう些細なことが、私だって人から聞いたら自業自得でしょと鼻で笑っちゃうようなことが、目を逸らしているうちに塵みたいに積み重なってゴミ集積所の一角みたいになって、ただどうしようもなく悲しかっただけ。はみ出た鼻毛なんて、いつもだったら笑い話にしちゃうだろう。私は自分で思ってるより弱くないし、ずっと図太いだろう。そしてそんな私を、健介は好きになってくれたんだろう。だらだらと瞳から零れてくる涙は漫画のように綺麗にカーペットに染みをつくってくれたりしない。ただ重力に従って私の頬を滑り落ちていく。言葉通り間抜けだった。優しい健介はきっと困ったように私を見ている。そう思うと涙が止まらなかった。流れ出る涙からもなんだか生臭い匂いがしてしまうような気がして、汚いもののようでごしごしと頬を擦った。つまらないことで泣いているから、健介を困らせているから、自分自身の残存価値はこれまた急速に償却されていく気がする。

「おい、どうしたんだよ急に」
「なんにもない」
「そんなに鼻毛嫌だった?…それなら、わりぃ」
「…なんでもない、健介はもう寝ていいよ。ごめん、ごめん。気にしないで」
「気になるに決まってんだろ、バカかお前」
「…泣く、から、抱きしめないで」
「もう泣いてんだろ」

聞こえないふりをして鼻を啜る。

「どうした」
「どうもしない」
「どうもしなかったら涙は出ねーよ」
「…花粉症」
「時期外れだわ」
「…」
「…」
「あのね、健ちゃん」

「どうしよう、私、最近ダメダメなの」

ひっく、ひっくとしゃくりあげながら、私が最近起こったことをゆっくりゆっくり話すのを、健介はときたま相槌を打ちながら、それでも黙って聞いていた。私は話ながら改めて自分の情けなさに感じて、追加補充分の涙を流す。急きょ注文した追加分をすぐさま持ってきてくれるなんて私の涙腺は働き者だ。営業マンなら営業成績優秀者として社内表彰で金一封をもらえるだろう。大学でだって多分成績優秀者って表彰してもらえる。少なくとも私より、ずっと優秀だ。ごしごしと擦りすぎた目元が痛かった。喉も、いつもよりずっとひりひりした。

頑張れない自分が嫌いだった。突出した才能も持ってないのに頑張らない自分には、もはや何の意味すら持たないような気が、ずっとしていた。頑張って頑張ってやっと普通の人と同じくらいなのに、最近全然頑張れてない気がしているとは、自分でも薄々気付いていた。健介に甘え、均衡のとれた今の生活に甘え、穏やかで幸せな空気に甘え。いろんなことに甘え過ぎていた。そしてそのことに、私はちゃんと気付いていた。気付いて、それでも何もしなかった。

しゃくりあげながら、理路整然としない言葉の羅列を流していた口が活動をやめた。私の心中では依然としてなんの区切りもつかなかったし、もはや自分が何を言いたいか意味が分からなくなっていた。ただただ舌が熱くて、頬が熱くて、それなのに心だけがやけにひんやりとしていた。静かに相槌を打っていた健介は私の言葉を飲み込んだかと思うとしばらく沈黙して、ようやく口を開いた。「だから、健ちゃんって呼ぶなって」私のためにわざと見当はずれな言葉を紡ぐその声があんまり優しいんで、私の眉はまた下がってしまう。ぽんぽんと背中を叩かれた。

「なまえ、ちゃんと頑張ってるもんなあ。オレ、知ってるぜ」
「…頑張ってなんか、」
「頑張ってるっつーの。なあ、オレの頑張りと比べられても全然嬉しくねえだろうけどさあ、少なくともお前はオレより全然頑張ってるし、こうやって泣きそうになりながらも自分の力でレポートするし。オレのためにおいしいご飯も作ってくれるし、あ、たまに味付けミスるけど、まあそれはオレの愛でカバーするとして、でもああその、なんだ」
「…」
「オレはちゃんと知ってるから。んで、お前のこと好きだから。もっと言えば、頑張らないなまえでもちゃんと好きだから」
「…嘘だあ」
「嘘じゃねえ」
「嘘だよ、嘘嘘、健介は優しすぎるし、私に甘いし。ていうか人間出来すぎてるし」
「なにそれ、本人に向かって惚気?流行ってんの?」
「それに、」
「無視か」
「私、全然、そんな価値ないし」
「…卑屈になってんなあ」
「本当はめんどくさい女だもん」
「いっつもそうやって素直だといいのに」
「これは素直とは言わないよ」
「じゃあなんて言うんだ」
「えーと、なに、なんだろ。我儘?」
「じゃあそれでもいーよ。オレには一緒みたいなもんだ」
「何それ」
「いーんだよ」
「…」
「とりあえずレポートからやってみようぜ」
「…うん」
「一個ずつやってこう。少しずつでいーから。なまえはもう少し、駄目な自分を許してやれ」
「…」
「返事は」
「…うん」
「あー恥ずかしい。オレ、だいぶ恥ずかしいこと言ってねえ?なんで今更告白してんの。あーやっぱり酔ってるかも」
「…酔ってるね」
「はは、嘘。酔ってねえよ」

目が、あった。健介の瞳の奥の暗闇がきらきら輝く。クッキーの上のアーモンドみたいに、夜空の星屑のようにそこらじゅうに散りばめられたもの。言葉にするなら優しさとか、慈愛とか。はたまた愛、とか。ぎこちなく重ねられた健介の手はお酒のせいかいつもより脈動が少し早くって、その温度の中でずっと生きていけたらどんなにいいだろうと思う。涙が乾いて、頬が引きつった。綺麗に笑えなくても、呆れるほど泣き虫でも、全てをなくして私自身の価値しか残らなくても。この人は私を好きでいてくれるのだ。掬い上げられてから見下ろす水底は、なんとも浅いものだった。そして救い上げられた健介の腕の中で思うのだ。私、この人が好きだ。




散りばめた星屑にくちづけ



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 伊都 (120929)