高校三年生の夏は、思ったよりもずっと早くにやってきた。泉の夏は終わってしまったけれど、それは世間一般で言う夏休みはまだ始まったくらいと同じだった。泉の泣き崩れる姿と、あてつけみたいに鳴り響くサイレンを、私はまだ覚えている。あっけなく、球児の夏なんてものは終わりを告げ、本物の夏ってやつが到来した。そしてそれすらも今日、終わろうとしている。高校最後の夏休みは駆け足で過ぎていった。 図書館で勉強をしようとなったのはお互い宿題が終わっていなかったからだ。それ以上もそれ以下も意味はない。…私は、それに意味を持たせていない。朝から図書館に缶詰めになれば夕方頃には二人ともやっと片が付いてほっと胸を撫で下ろす。図書館を出るとむあっと夏の匂いがした。しぶといやつだ。 帰り道をのんびり歩いていると、ぽたん、ぽたんと鼻先を水が濡らした。ふと上を見上げるとすごい勢いで雨が降ってきた。二人して慌てて、適当な雨宿り場所に逃げ込む。 「もう、最悪…!濡れたんですけど…!」 「オレも同じだよ、うわー、泥はねしてンだけど」 「…雨だね」 「…雨だな」 「ちぇー、夏休み最後の最後で雨振るとかついてない」 「しかもこのタイミングで降るかよ、って感じだよな」 「泉が雨男なんだよ、きっと」 「みょうじマジウゼー。大体、それ言うならみょうじが雨女なんだろ?」 「ていうか私らなんで夏休みラストまで勉強してんの…」 「確かに、そうだよなあ」 「あはは、でもなんか、去年の夏思い出さない?」 「あー。あれか、練習試合のときだろ」 「そうそう、九回表のさあ、バッター田島でランナー二塁三塁大チャンスのところで雨降ってきてさあ」 「しかもこんな感じのスコールな」 「ね。しかも雨止んでくんなくて、そこで急きょ試合中止になっちゃうし、ランナーもみんなベンチに引っ込んだのに田島だけホームに立ち続けてね。何してんのかと思えば突然あいつ、ホームから一塁に向かって走りだしちゃってさあ」 「あれは笑った。田島のヤロー、ドヤ顔でガッツポーズしながらダイアモンド一周してヘッスラでホームインするし、それ見てオレら大爆笑してあとに続いちゃうしな」 「相手チームぽかーんってしてたよね」 「モモカンも笑ってたからなあんとき」 「そうだったっけ?結果みんな泥だらけになったんだよね。…まあ私は千代と二人で大爆笑したけど」 「なー…楽しかったよな」 「楽しかったよねえ」 「…なんか野球したくなっちまった」 「ほんとだよ。はあ…受験生ツライ」 「まー…いいんじゃねえ?また来年もあるし」 来年ならみんなもう大学生だから、夏休みまだまだ続いてるだろうしなあ、うわ、楽しみじゃねえ?と泉がにやりと笑いながら私に問いかける。口の中が急速に乾いていくのが分かった。舌の上でごろついている名前のわからない感情が、どろりと溶ける音がする。そうだね、という声が震えるのが分かった。 「泉」 「んだよ」 「…また、来年の夏も楽しいこと、たくさんしようね」 来年の今頃、きっと泉も私もここにはいなのだろう。地球上のどこかには存在するとしても、そう、ここにはいない。あの、グラウンドにも、もうだれもいない。泉も田島も三橋も阿部も、みんな。振り返れば私たち、いつだってあそこにいたよね。夏の日差しも冬の寒さも全部忘れたような顔して、あそこで笑ってたね。思い出すまでもないよ、思い出になりきれないあの頃の私は、あそこで息づいている。横の泉をちらりと盗み見る。すぐに目を逸らして自分の腕を見つめた。この肌が真っ白になるころ、私たちが一緒にいることも、もしかしたらないのかもしれない。私は泉といつまで友達でいられるかな。泉は私といつまで友達でいてくれるかな。今はまだその薄っぺらい言葉を、関係を、距離を、信じててもいいかな。バケツをひっくり返したみたいな雨もいつの間にか止んでいて、夕焼け色が雲の合間から見えていた。帰るか、という泉が言って歩きだす。慌てて私もそのあとを追いかけた。ぶらぶらと揺れるその手を、掴もうと思って伸ばした手はやっぱり空を切る。かなわないなあ、いつまでも。これで最後だ。高校最後の夏休みが、終わる。 泉、私はね。なんでもないような顔をしてまた来年なんて言える、その強さが欲しかったんだよ。 アナザーアンサー 花乃子さん リクエスト ありがとうございました! title by 金星 song by 奥華子『ガーネット』 (120911) |