世界は出会ったときから常にさまざまな音の坩堝でした。 私にはたくさんのお友達がいます。毎日毎日おはようと呟きながら学校に通います。そこかしらから聞こえる声は今日も私におはようと声を返します。私は私を取り巻く全てのものを美しいと思うのです。「おはよう、お花さん」おはよう、花々が口々にそう返します。「おはよう、小鳥さん」鳥たちがさえずりで応えてくれます。太陽の光はお布団のようで、ずっと眠っているような錯覚に駆られるものです。「おはよう、太陽さん」太陽はもう一度きらりと光りました。 学校に行っても様々な声が聞こえます。気持ち悪いという言葉が一番多いけど、あまり意味のないような声に聞こえるのでとくに気にしません。それよりも私はチョークが黒板を削るときのあの悲鳴や、ノートが捲られるときの呻くような声の方が、好き。目を抉り取られてしまっても耳さえあれば生きていけるような気がしてしまうのです。耳なし法一のようになってしまったら私は絶望で死んでしまうかもしれません。比喩でも何でもなく。 ママは小さいころから私に「大きな声で挨拶をしなくちゃだめよ」「差別をせず誰にでも分け隔てなく接しなさい」と言い続けてきたのに私がいろんなものに挨拶をしたり、お話をしたりしているところを見ると猛烈に怒ります。ときには泣き喚いたりします。その声で聞こえていたはずの音がかき消されてしまうので私はあまりそれが好きではありません。パパがママを宥めています。パパはいつも私を怯えた目で見ます。「もうたくさんよ!」ママが叫んで、ガラスでできたコップが割れるのが見えました。痛いよ、と一言叫んでコップはもう喋らなくなりました。これが死ぬということか。私はじんわりと実感します。死とは、無音と同じなのです。だから私はせいいっぱい生きている世界の音を無視することができません。それはすなわち彼らの生を、無視することになってしまうから。 「なまえっち、もうやめなよ」 「…涼太くん?」 涼太くんが悲しそうな顔で私を見ます。涼太くんだけは私のことを気持ち悪いとか、怖いとかいいません。殴ったり蹴ったりもしないし、逆に触れるのを躊躇ったりもしません。涼太くんはすごい人です。彼の声は人間の声の中でも珍しく意味のあるものに聞こえます。優しくて、人気者でバスケが上手。私にはその全てを兼ね揃えていることが必ずしもすごいことだとは思わないけれど、涼太くんがすごい人だとは思うのです。涼太くんは私をぐいと胸元に引き寄せて、私の耳を両手で覆いました。音が、水の中にいるみたいに不透明になります。びいん、びいいいん。弦を指ではじくような、音。 「見なくていーよ、聞かなくていーよ。オレがいんじゃん、なんにも考えなくていーよ」 「…涼太くん?」 「なーんて。…言えたら、よかったんスけど」 涼太くんはたまに難解な言葉を口にします。私にはいつだってその意味が上手に理解できません。不透明の、たとえるなら茹で卵の殻と中身の間にある薄皮の、その向こうで涼太くんの声が聞こえます。意味がわからない。どうしていいかもわからない。心臓がどきどき鳴りました。痛くて苦しい、と、そう言っていました。意味がわからない。肩越しに水気を感じました。涼太くんが泣いていることに気付きました。私の知っている涼太くんは、人前で泣いたりしないのに。誰かのために、泣いたりしないのに。不思議な気持ちです。涼太くんの瞳から漏れ出る液体が悲しい、と言う声が聞こえました。涼太くんは、悲しいらしいのです。 「なまえっちは、人より少し前に進みすぎちゃったんスよね」 「…どういうこと?」 「…考えなくていーっスよ」 「涼太くん、こしょぐったいよ」 「もしさー。このままオレがなまえっちを押し倒して、いかがわしいことやっちゃったらさ、なまえっちの世界はもっかい変わるかな」 「…涼太くん、」 「ねえなまえっち、オレね、好きなんだよなまえっちのこと」 「聞、こえないよ」 胸からぱっと体を離されました。耳の拘束も、解かれます。目の前で涼太くんが寂しそうに笑いました。そのアーモンドの形をした再び瞳からぷつりと涙が零れます。ねえ涼太くん、どうして泣いているの、どうしてそんな顔をするの。呟く言葉が音に乗ってしまうのを怖いと感じたのは初めてでした。涼太くんの頬を流れる涙が床に落ちて弾けます。また雫が死んでしまいました。断末魔は聞こえませんでした。ほうら、世界は今日も、残酷で美しい。どうしようもないくらい、目も眩むくらいに。 私は最初からなにも欲しくありませんでした。本当に、なんにも。ママの優しい手もパパの憐憫も、学校のみんなの笑顔も、涼太くんのその言葉だって。だって世界には最初から、こんなにも音があふれているのですから。どうして、みんなにはそれが聞こえないのでしょう。私を指さして笑う人にはどうしてこの声が届かないのでしょう。それからどうして私は涼太くんの声を聞こえないふりをしたのでしょう。彼の生を、無視してしまったのでしょう。わからないのです。わからないのです、少しも。 バッド ・ エンド ・ 進化論 素敵企画kissed crying さまに提出させていただきました!ありがとうございました! (120905)伊都 |