優しさがすべてだと夢想した愚か な私がこんな形で裏切られるのは もしかしたらあまりにも自然な摂 理だったのかもしれない。あなた の愛がたくさん眠るこの部屋で、 今日恋が死んでいく。 本当にすいませんでした。その言葉はやけに無機質に思えた。温かいも冷たいも、何の温度のない言葉だった。目の前であんなに愛しかった男が土下座をしている。寒々しい光景だった。状況が硬直していたのは、私がその言葉になんと応えればいいのかを知らなかったからだ。要するに、今まで浮気をされたことがなかったからだ。私はようやく沈黙を破る。 「…とりあえず、顔上げてよ」 「…」 「ね、涼太。無視しないで。無視するなら、出てって」 「ご、めんなさいっス!」 「もういいって。…もういい、全部いらないから。涼太、別れよう」 「そんな、なまえ!ちょっと聞いて…!」 「ごめんなさい、さようなら、好きでした、どうかお元気で、お幸せに。黄瀬くん」 早口でそうまくしたてて、玄関口へ彼を押しやる。これ以上一緒にいるともしかしたら自分の水槽から溢れてしまうくらいのひどいことを言ってしまいそうで、怖かった。口では抵抗しながらもずいずいと押されてくれたのは涼太の最後の優しさかもしれなかった。多分、私たちはいつだって、お互いを傷つけたくなかったんだなあと思った。最初だって、今だって。だけどそんなの、恋人じゃないのかもしれなかった。もしかしたら人はそれを仲良しごっこと呼ぶのかもしれない。私たちはそれなら最初から破綻していたんじゃなかろうか。こうなることは自明だったのではないか。幸せに浮かれていた自分は気付かなかったけれど。私のための星は、今日も光らない。 「失恋、かなあ」 涼太が出て行ってから、二人で食べるはずだった朝食を全て三角コーナーに突っ込んだ。ガチャンと皿の乱暴な音がした。そしてコーヒーの入ったマグカップを片手に、キッチン前のカウンターに腰掛けながら自分に言い聞かせるようにそう呟いた。ぽたんと水面に水が落ちて波紋が起きる。星屑のベールを崩してみたかった。波紋を起こしたかったのは、私の方だった。部屋の至るところから、涼太の残り香がまるで怪物のように私を襲ってくる。フラれたのは涼太のほうなのに、フったのは私のほうなのに、まるで私がフラれたような心持だった。今なら教室の後ろの方にあった、使い古された雑巾の気持ちがわかるなあと意味の分からないことを思う。 ねえ涼太。あなたのために伸ばした髪を切って、あなたのために揃えたペアグラスをゴミに出して、あなたのために買い集めた雑誌を捨てたとして、そうやって思い出を一個ずつ全て処分していったとして、そしたらあるいは、涼太は私の中から消えてくれるかな。でもあなたが好きだと言ってくれたこの声も、笑顔も、手の小ささも、私には一生捨てることも消すこともできなくて、それならどうやってあなたを私の中から完全に削除することができるんだろう。 きっと消せないね。私にはできっこない。分かりきったことだったよ。 嗚呼、いとしい君を呪うことしかできないなんて title by 金星 (120902) |